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ビール

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 集排法制定時に資本金九七七五万円、従業員三二五七人を擁し全国のビール生産能力の七二パーセントを有していた大日本麦酒株式会社は、その分割が避けられないとみられていた。大日本麦酒首脳部も、自主的な分割案を検討しており、社内に会社と労働組合双方から構成する分離対策委員会が設置されたりしている。持株会社整理委員会は、二十三年十一月に札幌、川口、目黒、名古屋、門司の五工場からなるイの会社と吾妻橋(東京)、吹田、博多、西宮の四工場からなるロの会社に二分割する案をまとめ、聴聞会を経てこれが決定指令となった(日本財閥とその解体)。すでに、大日本麦酒側では二十三年四月六日付「過度経済力集中排除法に基づく再編成計画書」を持株会社整理委員会に提出しており、このなかで、上記の二会社に分割すること、名称はイが日本麦酒株式会社、ロが朝日麦酒株式会社とされていた(サッポロビール120年史)。
 二十四年九月一日、日本麦酒株式会社が設立され、札幌工場は同社に所属することとなった。ところで、ビールの商標(ブランド)は、戦争中にサッポロ、アサヒなどの商標に代わりすべて「麦酒」という統一商標となっていた。分割を機にビール各社がそれぞれの商標を定めることとなったが、旧サッポロ、エビスの工場を引き継いだ日本麦酒は、あえて戦前の商標を復活させずに、新たに「ニッポンビール」のブランド名をつくり、マークはサッポロの★を用いた。これは日本麦酒が複数のブランドを用いるよりも社名と一致した統一ブランドの方がよいと判断されたからである。しかし、旧商標の方が知られていたため、ビール瓶のラベルには「もとのサッポロビール」の一言が付けられ、広告にも「エビス・サッポロ改めニッポンビール」と書かれていた。そのため、ニッポン・ブランドは市場では苦戦を強いられた。二十四年の各社のシェアは、日本麦酒三八・六パーセント、朝日麦酒三六・一パーセント、麒麟麦酒二五・三パーセントであった。その後日本麦酒のシェアは年々低下し、麒麟麦酒のシェアが急上昇した。二十九年に麒麟、朝日に追い越され、三十六年まで麒麟、朝日、日本の順となっている(ビールを中心とする各種酒類消費の概況 サッポロビール博物館所蔵)。二十九年頃から社内でサッポロ・ブランド復活の声が高まり、穴釜升夫札幌支店長のもとにも道内特約店からサッポロビール復活の要望が出された。そこで三十一年三月、札幌工場創業八〇周年記念としてサッポロビールが道内限定で復活した。これは好評を博したので、翌年二月には川口工場製品もサッポロビールとし、全国で販売することになった。ニッポンビールのシェアは縮小し、早くも三十三年には日本麦酒製品の三分の二がサッポロビールになり(サッポロビール120年史)、三十四年にはその九割がサッポロビールとなり、ニッポンビールは東京、横浜のみとなったのである(日本麦酒株式会社の沿革と現況(昭和36年)サッポロビール博物館所蔵)。

写真-1 ニッポンビール・ポスター

 終戦直後の札幌工場は原料・資材難に悩まされた。たとえば二十一年五月には、大麦が五万石必要なところ一万石しか入荷しておらず(道新 昭21・5・30)、戦前二〇〇万本の瓶を手持ちしていた札幌工場は、樺太の五三万本が回収不能となり、新造もままならず二十四年時点では八〇万本でやりくりしているという(経済トピック 昭23・12・1)。一方、ビール消費は旺盛で、二十四年八月に道内で売れたビールは、十四年以来の最高記録(一〇八万リットル)であった(道新 昭24・9・4)。二十六年の生産予定高は前年より八〇〇〇石多い四万八〇〇〇石でありその約三割が札幌で消費されている(道新 昭26・6・16)。先にサッポロ・ブランドの復活についてふれたが、実は最初の復活は二十六年、サッポロの輸出用ラベルを貼ったビールが、戦後初の輸出(船舶用)として、アメリカ船とスウェーデン船に積み込まれた時である(道新 昭26・8・21)。