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卸売市場の創設

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 昭和二十五年ごろまでに札幌市内には四つの青果市場があった(道新 昭25・9・5)。また魚市場は、高橋水産が昭和二十二年十二月二十日に開場した〓魚市場と、〓札幌魚市場が二十五年十一月に改名した〓魚卸売市場があった(札幌水産物商九十五年)が、九月五日豊平三条八丁目に誕生したサ印札幌魚菜卸売市場(取締役会長半田芳男、取締役社長武田義明、監査役戸島栄次郎)は、市内および豊平、定山渓方面への魚、野菜の供給を目的に設置され、セリ場、貯蔵庫など、すべて食品衛生法の規格により建てられた「全道最初のモデル市場」であった(道新 昭25・9・6夕)。また二十七年四月二十二日には大通東三丁目に東一札幌魚菜卸市場(社長長沢信広)が店開きし、その向かい側には〓魚卸売市場の第二販売所もあったことから競合が期待された(道新 昭27・4・23、札幌水産物九十五年)。
 このように民間経営の卸売市場が創設される一方で、二十五年には市営の卸売市場も設置された。二十三年九月十日、市は既に生鮮食料品と加工水産物の荷扱い場として「桑園仮荷扱場」を設置していたが(昭23事務)、二十五年七月一日には同じく桑園に琴似、手稲方面から出荷された野菜を扱う地場蔬菜売場をまず開場した。この年の三月には既に北海道魚菜卸売市場条例が制定されており(札幌水産物商九十五年)、市は九月二十六日札幌市魚菜卸売市場条例を制定して道知事の認可を得、十一月七日道外青果物などを扱う青果物卸売市場と既に開場していた地場蔬菜売場からなる魚菜卸売市場(ただし魚類は取り扱わない)を開場した(道新 昭25・11・8夕)。しかしこの卸売市場を利用する業者は少なく、地場蔬菜市場にいたっては翌年五月には早くも休業状態に追い込まれた。というのも、青果物の卸問屋は都心部に多く桑園とは距離があり、しかも地場蔬菜売場のある北七条通、及び西一四丁目通付近は道が悪く、琴似や手稲の生産者は民営の円山朝市に出荷するほうが便利だったからである。ちなみに円山朝市では山鼻、伏見方面の生産者の出荷も含め、一日の取扱高が平均二〇〇〇貫を超えたという(道新 昭26・6・1)。また二十六年八月には琴似、手稲、篠路、石狩など市近郊町村の生産者約七〇〇人で札幌地区青果物販売農業協同組合を結成し、翌二十七年四月北七条西二五丁目に地場蔬菜の立売場を設置した(道新 昭27・4・16)。このため卸売市場では円山朝市などと競合しないよう開場時間をずらしたり、貨物の到着時間にあわせて開場し新鮮なものを販売して客足を確保するなどの工夫をしたが(道新 昭27・7・6)、業者の利用は少なかった。
 一方、二十六年には桑園に中央卸売市場を設置する構想も浮上した。中央卸売市場の設置は、卸売業者間の取引の公明性を確保すること、需給の見通しや価格の状況を把握する際、本州市場に盲目的に依存している現状から脱却することなどを目的に、市内の民間卸売市場では規模の面でも衛生面でも問題があり市の急激な膨張に対応できないこと(石林清 札幌市中央卸売市場設置について さっぽろ経済 昭29・5)から計画されたが、当初の構想は青果物卸売市場、地場蔬菜市場に加え冷凍倉庫をもつ水産物卸売市場を設け、約五八〇〇坪の一大市場を建設し、市場内には近い将来創設される桑園の貨物駅のホームから引き込み線を引き、貨車が駅に到着次第、そのまま市場へ流れ込むようにするという大がかりなものであった(道新 昭26・1・17)。
 市としても、この構想に基づき、将来的に青果物卸売市場をセリ主体の市場とするため(道新 昭27・3・9)、二十七年四月には青果物卸売市場を使用していた業者一〇社(〓札幌青果株式会社・代表者石田寅吉・南1東2、株式会社〓勇崎恒次郎商店・勇崎恒次郎・北2東3、札幌丸協青果株式会社・村川嘉三・南3西2、株式会社〓紀の国屋本店・進藤好照・南1西1、札幌青果物商業協同組合・太田次作・南1西1、〓黒田商店・黒田秀信・南1東3、北斗商業株式会社・岩崎国太郎・北6西1、株式会社〓札幌青果市場・森初良・北8西1、一柳商会・笹田武・北8西14、〓橘内商店・橘内正吉・北2東1)の使用許可を取り消し、有力業者二社(〓勇崎恒次郎商店札幌市蔬菜出荷組合・北1西24)による運営に切りかえ(昭26、27事務)、中央卸売市場運営の基礎固めを行った。ところが、肝腎の水産物卸売市場の建設予定地が国鉄の所有地であり、しかも国鉄側も桑園駅拡張・貨物駅化(仮称西札幌駅)計画にこの土地を使用する計画であったことから、この構想は完全に頓挫した(道新 昭27・2・21)。その後計画は根底から見直され、結局中央卸売市場は昭和二十九年八月円山北町に建設されることとなり、翌三十年九月にはようやく二〇〇〇万円の起債も決まって本格的な工事が着手されることとなった。