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清涼飲料

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 昭和三十二年の夏には、サイダーは、札幌市内で二一軒の製造業者が一万一五〇〇石(約二〇七〇キロリットル)生産し、ラムネは四九軒の製造業者が六六〇石(約一一九キロリットル)生産している。ジュースは一〇円以上の課税ジュースが二八軒、五三〇〇万円相当を生産している(道新 昭32・8・14)。これらの清涼飲料は地元の零細業者により生産される一方、日本麦酒札幌工場でもリボンシトロンナポリン、リボンタンサン、オレンジリボンジュース、グレープリボンジュースなどを生産していた。ナポリンとは製法はシトロンと同じだが、香料配合を異にし、色素にて着色し淡橙色をしている飲み物である(麦酒及び清涼飲料水(昭和36年))。また日本清酒も四十年一月、清涼飲料工場を琴似の味噌工場敷地内に新設(日本清酒株式会社四十年史)、札幌に進出した朝日麦酒もビール生産に先立ちサイダー生産を始める予定であった(道新 昭40・4・16)。
 こうした成長する清涼飲料業界に衝撃を与えたのがコカコーラの札幌進出である。札幌でコカコーラがつくられたのは、意外に古く、昭和二十一年である。五月に、CCEC(ザ コカコーラ エクスポート コーポレーション)職員が大同酒造(北3西25)を進駐軍向けコカコーラ製造用に接収し、七月からコカコーラ製造を始めた。従業員は二〇人で、ほとんどが学生アルバイトであった。二十七年七月まで製造が続けられたが、その後北海道への供給は仙台工場が担当することとなり札幌工場から撤収した。忘れられたコカコーラは、高度成長期に内地に普及し、北海道でボトラーを設立することが企図され、大日本印刷が、栗林商会、伊藤組土建の資本参加を得て三十八年に北海道飲料(株)を設立、これが北海道コカ・コーラ ボトリング(株)となった(北の大地とともに)。
 北海道コカ・コーラは、札幌市清田に北海道工場を建設し、同年十二月から日産四〇〇〇ケースのコカコーラ、ファンタのレギュラーサイズを生産した(北の大地とともに)。北海道でのコカコーラの売れ行きは急増し、工場は、四十二年に第二ラインを完成させ、四十五年七月には第三ラインが完成した(道新 昭45・7・9)。