パン食の普及につれて、製パン業は成長産業となった。道内最大手の日糧製パン(株)は三十九年には月間小麦粉消費量八万袋の新鋭工場を建設し、生産能力は二倍になる予定だという(道新 昭39・6・1)。製パン業者の北海道パン協同組合加盟者は、四十一年には一四六社もあったが、過当競争を続けた結果、転廃業が相次ぎ、四十二年には一二七社、四十三年には九七社と減少し続けた。日糧製パンのシェアは四五パーセントに上がり、これを追う伊豆屋製パン(帯広市)、ロバパン(札幌市)、小樽製パン(小樽市)、第一パン(函館市)、蜂屋パン(旭川市)と零細メーカーとの格差は広がりつつあった(道新 昭43・7・22)。同年十二月にはついに全国最大手の山崎製パン(株)が小樽のパン工場を買収し、北海道進出を果たしたが、一年足らずで日糧製パンに工場を売却し撤退した(道新 昭44・11・12)。ところが、公取委は日糧の工場取得が独占禁止法の「一定市場での競争制限」に当たるとして、取調、立入検査を開始した。日糧では工場の閉鎖を手伝っただけ、ととまどいを隠せない様子であった(道新 昭45・10・8夕)。
和菓子、洋菓子などの製菓業は、全道で一五〇〇人ほどの業者がおり、家内工業的な小企業が大部分であり、業界の近代化、合理化は進まなかった(道新 昭43・9・9)。砂糖配給の関係から各地に菓子協同組合があり、北海道菓子協同組合連合会を構成していたが、中小企業団体組織法改正を機に三十九年六月、北海道菓子工業組合が設立され、各地の菓子協同組合は工業組合支部を兼ねることとなった。経済事業を目的とする協同組合に対して、法的な規制力をもつ組織として工業組合を結成したのである。理事長には(株)三八の小林弥三治、副理事長には札幌製菓(株)の猪俣松三が就任した。同組合は、製菓衛生師試験の実施、第一七回全菓博開催(札幌会場)などの事業を行った(創立三十周年記念誌)。