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場外市場問題

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 このように昭和二十九年の開設決定以来、六年をかけて中央卸売市場はようやく開場にこぎつけたが、その後も市場の運営をめぐってさまざまな問題が噴出した。なかでも特に問題となったのは、中央卸売市場に参加しなかった青果物の場外市場との関係である。白石農協の直営市場は中央卸売市場に参加せず、〓札幌青果株式会社からは小樽青果札幌支店と紀の国屋本店の二社が三十五年五月には早くも脱退し、市内で問屋業務を始めた(道新 昭35・5・12)。また、いわゆる「円山朝市」には札幌蔬菜出荷組合が運営する「六条市場」と札幌地区青果物農業協同組合が運営する「七条市場」があり、「七条市場」は中央卸売市場に加わったが、「六条市場」は加わらなかった。ところがその「六条市場」で中央卸売市場開設後、セリ売りや卸売人―仲買人のシステムがなく生産者が直接小売業者と取引ができることから地場野菜の取引が急増し、地場野菜の七割が扱われているとまでいわれた(道新 昭35・10・7)。そのうえ「六条市場」が、地場野菜だけでなく道外青果物も扱うため札幌丸市青果会社を設立して三十五年十月から取引を開始し、「七条市場」を運営していた札幌地区青果物農協のなかからも「七条市場」の復活を要求する声がでてきたことから(道新 昭35・10・6)、中央卸売市場も対策を考えざるを得ない状況に追い込まれた。
 本来中央卸売市場法により場外問屋の閉鎖を命じることは可能だが、その場合は補償問題もあって容易にはいかない。そこで中央卸売市場は、市場内の地場野菜売場に限り小売業者の仲買参加を認め、市場に隣接して構外地場野菜売場を設けて生産者と小売業者の直接取引を認めた(道新 昭35・5・17)。また「六条市場」の集荷仲買人を切り崩して中央卸売市場への参加を働きかけ、三十六年五月からは小売業者もセリに参加できる買参制度を導入し、札幌近郊から出荷される小口の蔬菜類の取引を容易にした。この結果三十六年八月ごろには中央卸売市場で扱われる地場青果物が急増し、市場内の地場物のセリ場では扱いきれず、空き地で露天のセリをする始末であった(道新 昭36・8・7夕)。
 一方三十六年十一月ごろの水産物の最盛期には、水産物のセリ場、仲買人売場も手狭となりつつあった。中央卸売市場は、第一次計画で四十年の札幌市内と近隣町村の推定総人口を九〇万人とし、その後五十年には一二〇万人になることも想定して全体計画が作成された(道新 昭31・3・17)。しかし昭和三十六年度の取扱高は、水産物約五万トン、青果物約四万五〇〇〇トン(道新 昭37・8・7)で、建設当初の見込みをはるかに超えていた。ちなみにこれだけの量を扱う場合農林省の基準で水産物はセリ場三一〇〇平方メートル以上、仲買人売場二六〇〇平方メートル以上必要(道新 昭36・11・4)といわれていたが、中央卸売市場はその半分程度しか面積がない状態であった。これは札幌市の需要が人口増に伴って伸びたこと、道央・道南地方にも物資が流れるようになったことが原因とみられるが、開場三年目にして早くも拡張が急がれることとなった。

写真-4 中央卸売市場

 一方「円山朝市」との競合も、再開していた「七条市場」を運営する札幌地区青果物農協に対し、三十七年十月には「七条市場」の用地と中央卸売市場内の用地の交換を申し入れて統合を実現し(道新 昭37・10・26)、「六条市場」の集荷仲買人の間にもこれに同調する動きがあったが、場外市場の中央卸売市場への完全統合にはいたらなかった。