一方住宅街の小売店や商店街にとっての脅威は、昭和三十六年ごろから目立ってきたスーパーマーケットの出現である。それまでも昭和三十一年ごろの札幌市中央協同組合の注文販売方式(道新 昭31・7・14)や安売りに挑戦する食料品店はあったが(道新 昭34・7・29)、三十六年南一三条西九丁目に開店したダイマルスーパーは完全なセルフサービス制をとり市内の一般価格の二、三割は安い値がついていた。これに対し製造業者は卸値を協定し、販売価格を市内で統一するよう小売店に働きかけ、いくつかの業者は商品を卸すのをやめるなどの対抗措置をとった(道新 昭36・11・16夕)。
しかし物価問題をかかえる札幌では安売りを求める声は絶えず、三十七年には真駒内団地の住民が自らの出資による生活協同組合を発足し、スーパーマーケットを開店した(道新 昭37・12・16)。また大手企業の購買部が独立してスーパーを開店する例もあり、三十八年までに三井鉱山系のスーパー三店が店開きした(道新 昭38・3・23)。
一方このようなスーパーの進出は、本州の大都市では札幌より一、二年前から既に始まっており、札幌では三十七年夏ごろから急速に増加し、三十八年四月には二五店、その後四カ月で三九店にまで拡大した。しかし札幌商工会議所の調査では、この時期の札幌のスーパーはまだ地元資本による中規模経営で、業績もそうかんばしいものではなく、経営も軌道に乗ったというほどではなかった(道新 昭38・8・3)。したがって小売店や商店街はスーパーの進出に「心理的ショック」を受けただけといわれた(道新 昭39・2・20)が、その反面繁華街のスーパーより団地や住宅街のスーパーのほうが一日あたりの客数は多く、今後中型スーパーが大型化したり、大手本州資本や地元の不動産業者、石炭産業などが多角経営の一環として資本力にものをいわせてスーパー経営に乗り出した場合、小売店や商店街との競合は深刻化するおそれがあるとの指摘がなされた(道新 昭38・8・3)。また対抗策として共同仕入れによる割引販売に取り組む商店街もあり、小売店の間でも共同店舗の開設や合同、スーパー形式の店舗経営などが意識されるようにはなったが、取り組みとしては低調だった(道新 昭39・2・20)。