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電気事業再編成問題

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 昭和二十年(一九四五)八月、ポツダム宣言の受諾により、無条件降伏を行った日本は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の間接占領下に置かれたが、終戦直後も道内の電気事業の中心となったのは、日本発送電(株)北海道支店北海道配電(株)であった。通史四で述べたように、この両社は、戦時体制下で電力の国家管理を実施するために設立されたものであり、各々、北海道における発電・送電、および配電業務を担ってきた。幸いなことに空襲による被害は軽微で、北海道配電で、被災変電所四カ所(戦災減退出力七九〇〇kVA)、送電設備の断線四六カ所、金額にして一一万一〇〇〇円などの被害にとどまった(電気事業発達史)。
 ところで、終戦直後の混乱が次第におさまるとともに、電力業界の大問題となったのは電気事業再編成問題である。二十三年二月、過度経済力集中排除法(集排法)の第二次指定により、日本発送電と九配電会社が指定を受け、これを契機として電気事業再編成のあり方をめぐる論議が政官界や産業界を巻き込んで盛んに行われるようになった。
 再編成案の主なものとして、日本発送電が提言した発送配電を一元化する全国一社化案、九配電会社が提唱した私企業体制による地域別会社案、日本電気産業労働組合(電産)が主張した公社化案があり、このほかに配電都道府県営を唱える期成同盟会案などがあった。
 その後、電気事業民主化委員会(昭23・4設立)、および電気事業再編成審議会(昭24・11設立)で再編成案のとりまとめを行い、第七国会(昭25)に提出されたものの、難航した末に時間切れで審議未了となった。結局のところ、連合軍マッカーサー最高司令官から吉田首相へ送られた書簡を受けて、急拠ポツダム政令による実施の形をとって、ブロック体制による民有民営、発送配電一貫の九電力会社が設立されることとなり、二十五年十一月二十四日付で電気事業再編成令、および公益事業令が公布された。また、翌十二月に政府の外局として公益事業委員会が発足し、再編成についての方針を定め、新会社の発足日を二十六年五月一日と定めた(電気事業再編成史)。