昭和二十一年六月十七日、GHQ民間情報教育局新聞班長インボデン少佐が来道した。同少佐はさきに読売新聞記事をプレスコード違反として、同社社長に責任者の処分を求め、読売はすでに組合長兼編集局長ら六人に解雇通告を行い、のちには第二次読売争議に発展する。十八日に札幌市会議事堂で行われた道新社員への講演で、インボデンは、道新が「共産党の機関紙(中略)になりたいのなら現在の発行部数を削減する」と言明し責任者の処分を「示唆」した(道新労組 わが三十年史)。用紙類はまだ厳しい統制下にあり、GHQは前年九月に「新聞ならびに言論の自由に関する新たなる措置」を指令していたが、あくまでもGHQ検閲下での自由であった。
道新は六月二十日、従組創設者ら八人の休職処分を決定したが、インボデンは「ソッポを向」き(奥田二郎 道政風雲録─戦後十年)、会社はさらに一七人退職、二八人の休職を組合に通告した。経営管理終結後に再発足していた組合が、「やむを得ず承認」と執行委員会で決定する一方、会社側は二十七日、退休職者五三人の出入禁止を宣言した(前出 わが三十年史)。共産党道地方機関紙「トラクター」(昭21・7・22)は、「民主主義解放軍たる聯合軍が、そんなバカげた命令を出す訳がない」として「社長の陰謀」を激しく糾弾し、処分反対争議団が道地方労動委員会に提訴したが、十二月二十一日、一〇人復職、四三人依願退職などで道内初の「レッド・パージ」は事実上終止符がうたれた。この間の九月二十六日、結成から間もない産別会議加盟の新聞単一(委員長=産別会議議長)が、最高闘争委員会で読売・道新争議解決を最大要求に掲げて「新聞ゼネスト」決行計画を決定したが、加入単位組合のストライキ見送りが続出し挫折した。産業別単一組合といっても実態は企業別組合の協議体に過ぎなかったのである。