興農公社従組と協組は、酪農労組として合併後の昭和二十五年、企業再建整備法による企業分離で解散後、北海道バター労組及び雪印乳業労組として存続した。だが手稲鉱山労組(四二二人)は二十五年、鉱業所閉鎖阻止と引き替えに一五八人の大量解雇に調印したのち解散し、翌二十六年、労組が復活したが組合員数は二二人に激減した。また戦後早期に誕生し、独自にストライキや生産管理を展開した零細組合の幾つかは、あいつぐ企業閉鎖や財政的事情などで消滅、解散した。一方、組合役員賃金の経営者負担などを禁ずる改正労組法に備えて、藤屋・北農機・東洋・大興機械・北都電機・伊藤組鉄工・丸吉鉄工・中山機械の中小八組合が合同して、二十四年六月、札幌金属労組(のち札樽金属)を結成するなど、新たな産業別組合も誕生した。だが伊藤組鉄工では、支部名義では新労働協約を認めないとして会社側が調印を拒否し、十月になり地労委の勧告でようやく受諾、調印した。東宝映画劇場(三二人)では二十五年七月、日映労組東宝支部札幌東宝劇場職場(一一人)の団体交渉要求に対抗して解雇通告が行われ、中山機械でも二十六年九月、共産主義者が企業を崩壊に瀕せしめたとして、札金労中山機械支部に対し組合幹部六人の解雇を通告するなど、労組法改正後、特に民間企業における使用者側の高姿勢が目立つようになった(労働争議調整事件集録ほか)。
二十一年三月に職員・工員混合組合として結成された古谷産業(のち古谷製菓)従組では、二十六年四月の組織改編で労働組合と職員組合に分割された後、事務所問題や組合費天引き事務手続、賃上げ交渉などをめぐって会社側と紛糾し、労組(四一二人)が八月二十九日から無期限ストに入り、組合員は正門事務所前にゴザを敷いて座り込むなどの抗議を展開した(道新 昭26・8・31)。賃金・手当問題の解決で九月六日から就労したが、組合事務所や電話架設、会議用机脚問題などの解決をみるのは十一月七日になってからであった(労働争議調整事件集録)。