終戦後間もない昭和二十年(一九四五)九月、市民は敗戦の衝撃に次いで、伝染病の大発生による不安に襲われた。腸チフス・パラチフス・ジフテリアなど、急性伝染病の新患者が一日当たり三〇人発生し、九月二日現在の患者数は六三九人という猖獗をきわめた(道新 昭20・9・5)。伝染病隔離病院の円山病院(六〇床)が収容力を越えたため、市衛生課はやむなく、患者の四割に自宅隔離・療養を許可したことから、「異例ノ激発ヲ来シ其ノ状勢逆暗シ難」い状況に陥った(昭20事務)。しかも市内に大規模病院が集中していたため、近隣町村からの入院希望者が増え続け、その数は同年の市内伝染病入院患者四五〇〇人の二割近くを占めるに至った。札幌市は北大病院、天使病院、女子医学専門学校附属病院などに救援を求め患者を収容したが、ついにこれらも収容しきれず、市立札幌病院普通病棟の大半を一時閉鎖し伝染病棟に転用した。十一月、伝染病関係予算を使い果たした市が、対策に苦慮するなか(道新 昭20・11・15)、占領軍による医療改革が開始されることになった。