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新たな反戦・平和運動の展開

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 昭和三十六年九月一日、ソ連で核実験が再開された。三十八年八月二日、札幌では第九回原水爆禁止世界大会北海道代表団結団式が行われたが、八月五日に広島で開催された世界大会は、「いかなる国の核実験にも反対」(社会党・総評系)と、「帝国主義国の核政策と社会主義国のそれを同列視すべきではない」(共産党系)とする基調をめぐって紛糾し、社会党・総評系などが退場して流会となった。三十九年五月、北海道原水禁実行委員会も「いかなる国の核実験にも反対」問題で解散し、六月五日、全道労協などを中心とする「北海道原水爆禁止協議会」が、六月七日には平和委員会等による「原水爆禁止北海道協議会」がそれぞれ結成され、北海道の原水禁運動も事実上分裂した(全道労協運動史)。
 四十年二月、米空軍がベトナムで北爆を開始し、三月には毒ガスの使用が明らかになったことから、米国内でも非難の声が拡大した。四月二十六日以降、ベトナム反戦全国統一行動全道集会やベトナム侵略反対国民行動全道集会などが大通西七丁目で頻繁に開かれ、四十一年十月二十一日には、総評の提唱で、秋闘第三次統一行動に合わせてベトナム反戦統一ストライキが組織され、札幌でも二〇組合・二万人が時限ストを実施した(札幌の労働運動)。このベトナム反戦統一行動は、総評・中立労連の提唱で、翌年以降も「一〇・二一国際反戦統一行動日」として継続され、四十二年十月に札幌で開催された全道中央集会には一万人が参会した(北海道労働運動年表 戦後編)。
 一方、四十年四月、小田実ら三八人の呼びかけで東京・清水谷公園で開かれた集会を機に、「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」(ベ平連)が発足し、翌四十一年十一月十六日、花崎皋平山田順三・笠井清・江原光太ら学者・文化人一三人によって札幌ベ平連が発足した。ついで、札幌学生ベ平連(北大ベ平連)も結成され、定例会や機関紙発行のほか、定例行動として毎月第三日曜日に大通公園で定例デモを行った(古川勇一 旧「ベ平連」運動の情報)。また四十年八月、社会党系の青年労働者組織として個人参加の「反戦青年委員会」が結成された。道内でも、青年労働者の間に急速に浸透し、国労・全農林・全林野・全逓・全電通・全道庁・都市交通・北電などに組織が広がり(全学連各派―学生運動事典ほか)、四十一年十一月には、札幌地区反戦青年委員会が、大通西七丁目広場でベトナム反戦総決起集会を開催するなど(札幌の労働運動)、次第に活動が活発化した。その後、反共産党系の団体・組織などとの連携が深まり、その思想的影響を受ける青年労働者層も増加した。
 学生運動は六〇年安保改定阻止運動の評価をめぐって混乱し、ブントが解体した。その後、全学連の主導権を握った日本マルクス主義学生同盟(マル学同)が、三十八年に「革マル派」と「中核派」に分裂し、同年七月、革マル派「全学連」が誕生して北海道学芸大(昭41北海道教育大)の根本仁が委員長になった。民青系や中核派などの「全学連」も結成されたが(全学連各派―学生運動事典)、札幌では革マル派と民青系が各大学の学生会の中で勢力を伸ばし、中核派も反戦青年委員会との連携を深め国鉄労働者の中に支持勢力を広げた。また学生や労働者の中に、旧ブントのほか多様な反戦組織や反体制グループも生まれた(北海道主体者連合通信 昭45)。
 四十三年五月、防衛庁のナイキ基地建設計画が明らかになり、長沼ナイキ基地反対運動が起こった。全道労協社会党道本・共産党道委によって「全道連絡会」が結成され、地元の「基地設置反対同盟」とともに反対運動が展開され、六月に長沼町で行われた集会では、北大・小樽商大などの学生四五〇人が、機動隊二五〇人と激突して一二人が逮捕された。九月に長沼町で行われた反戦青年委員会主催の全道集会でも学生が逮捕され、四十四年五月の聴聞会でも学生集団が機動隊と激突し、学生四二人が逮捕され、双方で六〇人余が負傷するなど激しい抗議・反対運動となった。基地建設反対運動は、戦力と自衛隊をめぐる「憲法裁判」に持ち込まれ、四十八年九月七日、札幌地裁が全国で初めて、「自衛隊は違憲」の判断を示す歴史的裁判となった(道新 昭48・9・7夕)。