あいつぐ炭鉱閉山と合理化の嵐の中で総評は、昭和三十八年春闘を「ヨーロッパ並の賃金」要求初年度と位置づけた。繊維産業再編で道内原料工場閉鎖を進めてきた帝国繊維(本社東京都、組合員四三五〇人)が、札幌工場(従業員五三二人)の閉鎖など大規模合理化案を発表したのは、三十八年春闘道内第二波統一行動日から一週間後の二月十一日のことである。全道労協は第三波統一行動日の三月一日、帝繊札幌工場社宅広場に四〇〇〇人を集めて全道総決起集会を開催し、帝繊労組も三月五日、第一波七二時間ストに入った。その後も第二波三月十五日二四時間、三波四月二日から四八時間、四波四月二十五日二四時間などの波状ストを決行し、この間の三月十二日には札幌工場支部(五〇四人)が単独二四時間ストに入るなど、一七七日間に及ぶ工場閉鎖反対闘争となった。
だが労組本部の方針が次第に閉鎖反対から条件闘争に傾き、五月十五日から栃木県鹿沼市で開催された臨時大会において、札幌工場支部は本部方針を批判し、独自の闘争体制を確認した。しかし、七月十二日に至って本部が希望退職方式の合理化案に仮調印し、その後、札幌工場でも希望退職応募者が出始め、八月三日までに男子従業員一五四人中一〇二人が応募する状況となった。札幌工場支部も一カ月後の八月十四日、会社側の提案大綱を認め工場閉鎖に関する協定を締結した(資料北海道労働運動史 昭38-42)。地元組合の激しい抵抗と全道労協の支援にもかかわらず、明治二十年設立の札幌工場は九月二日の閉鎖式で七六年の歴史の幕を閉じ、かつては市内民間最大の組合として、戦後労働運動の牽引役を果たした帝繊労組札幌工場支部も消滅した。