昭和二十五年ころから都市化と環境衛生が社会問題化し始めた。春季、市内各地の道路や空き地にはごみが散乱し、石炭ガラがうず高く積まれ、強風にあおられて舞う馬糞などで大気も街も汚染し、「名伏し難いほど見苦しい」(高田富與 市政私記)状態であった。前年二十四年には、進駐軍の要請と協力により融雪後の市街清掃にトラックを出動させていた。市では二十五年六月一日、全国に先駆けて「札幌市清掃条例」を制定し、汚物の処理範囲や市民の義務などを定め、ごみ箱と灰燼(かいじん)箱を設置し、共同の市設ごみ箱を有料使用とした。市内に初めてごみ箱が設置されることになった。また、馬夫は「牛馬がふんべんを落としたときは直ちに掃除しなければならない」(条例第19号)としたことから、「馬が脱糞した場合は馬夫は条例違反で処罰される(中略)。札幌名物馬糞風も解消、本当の衛生都市札幌の実現」(道新 昭25・3・10)が期待された。だが基本的に市条例は、「汚物掃除法」(明33制定)の規程を超えるものではなかった。二十五年に札幌市民会館で開催された「北海道都市清掃大会」(北海道都市衛生協議会主催)では、GHQ北海道民事部からフット衛生課長の出席のもと、環境衛生立法制定の促進と清掃事業に対する起債の獲得などを決議し(昭25事務)、立法化へ向けた運動が開始された。
二十九年「清掃法」が可決(昭29・4・22公布)、七月一日に施行され、市町村の事業と責務が明確になり、国の助成も盛り込まれることになった。市では「札幌市清掃条例」を全面改正し(昭29・9・25)、①特別清掃地域の指定(指定以外は自己処理地域)と汚物容器の設置、②便所の蓋の設置義務、および井戸から五・五メートル以上離すことなど便所の構造改善規程を盛り込み、③建物占有者に年一回の大掃除を義務化した。「市長の指定する地域内の道路、広場その他の公共の要する土地」での馬に受糞装置(別称「馬のおしめ」)の取り付けを正式に義務づけ、違反者は「拘留または科料に処す」とした。清掃手数料は、すでに二十一年十二月十二日の市条例により、「塵芥灰燼処理手数料」を徴収していたが、特別清掃地域を区分し建物坪数の等級別制によって年額を定め、ほかに汲み取り手数料はその都度徴収するなどを正式に定めた(さっぽろ清掃史)。
三十年代に入ると、廃棄物処理について新たな問題が生じた。市の急増する人口と町村合併による市街地区域の拡大によって廃棄物処理区域も拡大した。さらに生活水準の向上は、世帯当たりのごみの排出量を増大させていき(表18)、市内合計一〇五五個(昭29)に増えたごみ箱からはごみが溢れ出し、ハエがたかり、「観光都市サッポロはごみの都市」(毎日 昭34・8・10)とまで言われ始め、市のごみの量は三十四年に全国一となった。同年八月現在、一日平均四五〇トンは史上最大となり、市民一人当たりの一日平均一〇〇〇グラム(うち炭ガラ二〇〇グラム)は、全国平均の四〇〇グラム、五大都市の五、六百グラムの二倍となった。理由は、①利用可能の物も捨ててしまう大ざっぱさ、②観光シーズンや昼間人口の増加にあった。三四台の清掃車全部を動員しても運びきれない状況となり、二条市場近くの風致地区・創成川にも夜間に投げ捨てられたごみの山が築かれ環境衛生が一層悪化した(読売 昭36・11・13)。