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敗戦と「玉音放送」

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 昭和二十年八月十五日の「玉音放送」によって太平洋戦争は終結した。敗戦であった。札幌市の児童は当日、どのような状況だったのだろうか。「厳かな『君が代』の奏楽ののち、謹んで頭を垂れてゐるヨイコたちの耳に、もつたいなくもラジオは玉音を伝えてきた」という次の記事をみてみよう。
この日札幌市西創成国民学校ではヨイコたち全部がこの御放送を聴きもらすことのないやうにと夏季錬成期間中行つてゐる各分散学級で謹んで拝聴するやう通報するとともに先生方もそれぞれ受持の分散学級でヨイコたちと一緒に拝聴した。(中略)この日を忘れることなく、国体の護持に身をもつて進む決意を固め、明日からは生まれ変つた気持で今までよりも一層自分たちのくらしを引き締め、またどこまでもお父さんやお母さん、先生のおつしやることをよく守つて勉強に錬成に食糧増産に一致団結してますます励み、陛下の大御心を安んじ奉らうと誓つた。
(道新 昭20・8・16)

 戦時下では夏休みを返上し、「夏季錬成期間」として勤労動員や分散学級が行われていた。分散学級とは、勤労動員や空襲に備えて、また「錬成」の一環として、学校に行かずに最寄の集合場所(児童の家の場合もあった)で学習し、教師は巡回指導するというものである。この記事からは、終戦を迎えても「国体護持」をうたい、食糧を増産しなければならなかった当時の状況が窺える。
 二十年八月十六日、文部省は学徒動員を解除し、同月二十一日に戦時教育令を廃止し、同月二十三日には学校教練を廃止した。ようやく戦時教育体制から平時教育体制への転換が開始されたのである。札幌市でも道庁警察部からの示達により、人口疎開や建物の分散疎開などの戦時措置を一切中止することにした(道新 昭20・8・16)。文部省は、同月二十八日に「時局ノ変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」を通達し、学校は遅くとも九月十五日までに平常の授業を開始するように指示した。勤労学徒の学校復帰や帰還学徒の再就学については、道庁教育民生部長が「希望に応ずる」よう通達を出している(道新 昭20・9・2)。札幌市内の各国民学校では、九月一日から一斉に二学期の授業を開始した。「当分の間、初等科は午前中、高等科は動員学童の復校状況によつて適宜行う」(道新 同前)とされたが、九月三日現在で、東洋高圧を除く全工場の学徒が復帰を完了した。