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新教育への模索

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 日本側による新しい教育への模索は、昭和二十年九月十五日に発表された「新日本建設ノ教育方針」で示された。そこでは「益々国体ノ護持ニ努ムル」ことと、「軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設」をすることなどが述べられていた。
 「国体護持」は、教育勅語の取り扱いに象徴的に示される。この時点では、あくまで天皇中心の教育を推進しようとしていた。十月三十日の記念日について、「〝教育勅語〟五十五年式典 意義新に盛大に挙行」(道新 昭20・10・28)という記事がある。会の趣旨を「明治天皇の深遠なる叡慮によつて勅語(中略)を臣等ひとしく奉体しもつて奉公の道に実践を誓ひ奉る心にある」とする。続けて「なほ一部識者には、終戦後の日本に教育勅語を奉体することは連合軍総司令部より発せられた指令に抵触するやうに考へる向もあるやうだが、教育勅語に示された教育の根本方針は平和を求めその理想とするところは原則において異るものではない」とし、「全市の学校教職員代表、各官庁市民代表者等が参加する、各学校では二十八日から一週間の記念週間中、教育勅語の謹解謹写、神社参拝、学芸会、展覧会、奉仕作業、遺族慰問等の記念行事を行う」と結んでいる。西創成国民学校では、三十日の一時間目に勅語奉読式が挙行され、午後には札幌市の記念式典が行われた(西創成国民学校 学校日誌 昭20)。教育勅語は「御真影」とは異なり、二十一年一月の天皇の人間宣言以後も、かなりの期間、国民道徳の規範として扱われた。その後二十三年六月、衆・参両院における排除・失効確認の決議によって廃止された。
 一方、「軍国的思想及施策の払拭」のため、九月二十日、「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」が通達され、軍事的・戦意昻揚的な教材を教科書から削除する措置がとられた。児童の手で墨を塗るという、墨塗り教科書の登場である(写真1)。札幌市では、十月三日に依命通牒されている。教科書は、その後いわゆる暫定的な「パンフレット教科書」が発行され、文部省著作教科書をへて、検定制の教科書へと変遷していく。

写真-1 墨を塗った教科書