北海道における軍政部の活動は、初期においてはほとんど明らかではない。日本側の回想によれば、「道内の情報を蒐め、米国から持ってきた情報資料と、実際の状況との確認に忙殺されていたようだ。だから、昭和二十年の秋から冬へかけては、教育行政、教育内容についてはあまりの指示はしてこなかった」(松本達雄 オキナワへ行け 北海道教育経営 昭57・7)となっている。
軍政部はまず日本側の状況を知るため、学校視察という形で学校を訪れた。学校視察とは、「教育諸施策の実施状況を検証、確認し、それに応じて日本側に必要な措置をとるための有効な方法」として行われたもので、占領期を通じて重視された(阿部彰 戦後地方教育制度成立過程の研究)。占領初期の目的は、日本の非軍事化のために、軍国主義的な施設・教材・教具などの摘発や監視などが中心であった。十月二十三日には、進駐軍情報局員ブネオと李件杯が庁立札幌第一中学校と庁立札幌高等女学校を視察し、「軍国主義的な教材の廃止、連合軍の指令遵守など教育界が直面する問題につき」要望した(道新 昭20・10・25)。市では体練科に使われた教具や武器の取扱いや、軍国主義的な教具などを処理するよういくつかの通達をだした。例えば「諸学校ニ保有スル木銃、木刀、木製薙刀等ノ処理ニ関スル件」(昭20・10・25)や「学校ニ残存スル武器並ニ軍事教練用具防空資材等ノ処理ニ関スル件」(昭21・1・7)である(西創成小 終戦ニ伴フ指令・指示並ニ処理文書綴)。しかし北光国民学校では、二十一年三月二十六日に視察を受けた学校より、「工作室ニ工作用グライダー模型ノ残片ヲ発見サレ」たという連絡を受け、対策をとっている(学校日誌 昭20)。また札幌市立中学校では元教練教官が別件で米軍憲兵に逮捕された。その自白中に、同校の武器、主として鉄砲や木銃を校庭に埋めて処理したと述べた。二十一年五月に拘留の身で実地検証に立ち会ったところ、校庭から鉄砲などが多数発掘された。同校校長は拘引され、後に軍事裁判で有罪となった。