師範学校は、戦前の教員養成の中核に位置しており、教育民主化のなかで批判された。対日米国教育使節団報告書も、師範学校の目的が、天皇の忠誠、愛国心の強調、戦時体制下の極端な国家主義の注入であったとし、制度自体も高等教育機関に対して袋小路になっていたことを批判している。庁立札幌第一中学校の安延三樹太校長も従来の師範学校について「その雰囲気の陰気なことと教育内容・方法に形式化しているといふのが輿論のやうである」と批判している(教育建設 第六号)。
このような師範学校出の教師は、批判的に「師範タイプ」と言われた。純粋であるが批判的精神を持たず、教育方法も形式に堕しているというのである。これらを制度的に変革するために、教員養成の二大方針がとられた。教員を高等教育機関で養成するという「大学での教員養成」という方針と、ある特定の学校だけで教員を養成するのではない「開放制の教員養成」である。のちに設置される学芸大学や学芸学部だけでなく、私立大学にも教員養成の門戸を開いたのである。
二十四年五月三十一日、国立学校設置法が公布され、北海道学芸大学の設置が決まった。本部を札幌におき、札幌・函館・旭川に加えて新しく釧路にも分校が、また岩見沢にも札幌分校岩見沢分教場(二十九年に分校に昇格)がおかれた。各分校には附属施設として、小・中学校・図書館・研究所も設置された。北海道学芸大学は、教員養成のみならず、北大などとともに教育職員免許法認定講習会の開催校となって現職教育もすすめた。「開放制の原則」に則り、前述の多くの私立大学に教職課程がおかれ、教員になる卒業生もあった。