戦場や勤労動員先から学園復帰を果たした生徒・学生は、敗戦直後から様々な行動を起こした。まず戦時体制下で行われた教育への批判からの同盟休校である。例えばのちに現札幌市に移転する小樽緑丘高等女学校では、校長排斥運動のため、職員四人と全校生徒による同盟休校が起こっている(道新 昭20・11・20)。
続いて生活窮乏のなかでの学生自治会の結成である。北海道では石炭不足による寒さも直撃し、学生生活は危機に瀕していた。北大では、学生会が昭和二十一年ごろから各学部ごとに結成され、二十三年六月には全学自治会が結成された。学校の再建や生活の諸問題を取り上げ、運動は組織化されていった。
二十三年五月に、国は国立大学などの学費を三倍に値上げすることを決定した。急激な値上げに対して北大では、同年六月二十五、六日に同盟休校が行われた。この運動を機に、九月には全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。本道でも、北海道学生自治会連合(道学連)が結成され、全学連に加盟して運動を進めることになった。二十三年の「大学法試案要綱」は大学管理を強化するものだとして、道学連は反対運動を起こした。二十四年七月には、高瀬荘太郎文部大臣が来道して北大に立ち寄った際、いわゆる「高瀬文相事件」が起こった。高瀬文相が乗った自動車を直談判を行うため止めた事件である。群衆の中に私服の警官が入っていたことが報道されたため、学生運動への警察の介入として問題となった(北海道教育史 戦後編二の二)。
二十五年五月十六日、北大でいわゆる「イールズ事件」が起こった。GHQの教育顧問であったW・C・イールズは、各地で大学から共産主義を排除する内容の講演を行っていた。北大でも同様の講演を行ったが、学生が紛擾し壇上を占拠したため、講演は中止となった。北大では、退学四人・無期停学四人・停学一人・譴責一人の処分を決定した。また責任をとって、のちに伊藤誠哉学長も辞任した。レッド・パージの一つを象徴する事件であった。
レッド・パージとは、共産党員およびその同調者を公職または民間企業から、追放するものである。教育界でも教員が追放され、北海道では二十四年十一月十八日に勧告がだされ、一六人が休職、一〇人が退職に追い込まれた(道新 昭24・11・19)。このことは、戦前への「逆コース」ではないかととらえられた。二十五年二月に一〇人が道教委に審査請求を行い、最終的に二人の処分が取り消され復職の判定が下された。