「もはや戦後ではない。われわれは今や異なった事態に当面しようとしている」と『経済白書』が宣言したのは、昭和三十一年であった。復興段階を経た日本経済は今や「近代化、技術革新」をテコに高度成長段階に移行しようとしていた。三十年代は政治的には「左右激突」の時代であり、教育界でも文部省と日本教職員組合との対立が激化した時代である。北海道や札幌市も中央の動向を反映して、行政と組合の対立が増すことになる。
対立の象徴の一つに、公選制教育委員会制度がある。この制度は、日本に定着するかにみえた。しかし地方では教育行政機構を一般の行政機構と分けて取り扱う余力はなかった。教育委員会は財政権を持たないため、事業予算については首長との折衝によらなければならず、独自性も強くなかった。住民自治の経験のない日本では、この制度を住民側も十分に理解していたとはいえない。そのような中、二十六年に首相の私的諮問機関である政令改正諮問委員会は教育委員の任命制を答申した。三十年には地方教育制度調査会が教育委員会の廃止を答申するなど、教育委員会制度の見直しの動きは進んだ。これに対し、中央教育審議会は二十八年に教育委員会の現状維持を答申し、全国都道府県教育委員会協議会も制度の現状維持を答申した。三十年、政府はいわゆる教育三法を国会に提出した。その一つである地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)は教育委員の任命制を骨子とするものであった。全国都道府県教育委員会協議会や全国地方教育委員会連絡協議会、また日本PTA全国協議会、日教組などは、教育に対する国家統制を促すとして同案に反対した。北教組も激しい反対運動を行った。
三十一年六月、教育三法のうち地教行法が成立した。これをうけて同年十月一日、任命制の札幌市教育委員会が設置された。委員には宇野親美、関堂利男、戸津夫佐子、中島好雄、横道雅美の五人が任命された。教育長については、都道府県教育委員会では委員以外から委員が任命するのに対し、市町村教育委員会の場合には委員の中から互選で選ばれることから、中島好雄が選ばれた。また教育委員長には宇野親美が互選の上、選ばれた。
市教委では、三十二年が新学制実施一〇周年にあたることから、委員会の存在意義をアピールする好機として記念行事をおこなった。その内容は、記念式・教育の集い・体育祭・記念音楽祭などの教育週間(10・1~7)や教育関係の展示などを行う教育展覧会(8・6~11)、そして記念教育論文募集、記念講演会、記念誌『札幌の教育』の発行などであった。