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放送管弦楽団と放送交響楽団

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 荒谷の活動と並行して戦後の札幌の音楽界を彩った団体に、札幌放送管弦楽団がある。放送管弦楽団は昭和十七年に結成されて以来、戦時中は日本軍の慰問に忙しい日々を送っていたが、戦後はそれに代わって、進駐軍の慰問が大きな仕事となった。進駐軍のダンスホールとなった今井記念館に二十年十月から一年半ほど出演したのをはじめ、週の大半を米軍の仕事に充てる状態が二十五年ごろまで続いた。当時は札幌からの放送が少なかったことから、地方や職場に出向いての演奏に力を注ぎ、現物支給の謝礼として受け取ったビール、米、スケソウダラ、石炭などが団員の日々の暮らしに役立った。
 二十四年ごろからローカル放送出演が増え出し、進駐軍慰問から本来の放送出演へと、活動の中心が移っていった。それと同じころから、本格的な管弦楽演奏にも取り組み始めた。オーケストラとしては小さい編成だった放送管弦楽団が戦前の札幌新響と合体し、「札幌放送交響楽団」の名前で演奏活動を始めたのである。
 二十三年九月の第一回から最終回の四十二年五月まで二十数回を重ねた定期演奏会では、指揮には放送管弦楽団の西田直道、東京からの山田一雄、渡辺暁雄、石丸寛ほかが当たり、協演者には地元育ちの遠藤郁子、東京からの松浦豊明(共にピアノ)ら一線の奏者も迎えた。また地元の指揮者として、建築家で札幌新響の指揮者でもあった田上義也や、北大音楽科教授の遠藤宏がステージに立ったこともある。
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写真-7 札幌放送交響楽団第1回演奏会(昭23.9.24 札幌松竹座)

 プログラムには、交響曲や協奏曲のほか、札幌新響の元団員で、東宝で黒沢明監督と組んでの映画音楽作曲などに活躍していた早坂文雄の作品も取り上げた。
 ほぼ二〇年間にわたって活動を続けた札幌放送交響楽団が道内の音楽界に残した足跡は大きかったが、母体となっていた札幌放送管弦楽団は、NHKがこうした活動の東京集約化を進める中で活動が停滞していった。
 そうした中、三十六年に札響が誕生した。それから数年を経て、札幌放送管弦楽団は、黒川武の言う「職業的オーケストラ」としての使命を果たして、「プロ」としての札響に座を譲る結果となった。その過程の中では、放送管弦楽団から札響に移るメンバーもいた。放送管弦楽団はやがて、放送への出演回数が減少すると共に団員の出演料も頭打ちの状態となっていった。