まだ戦後の影をひきずっていた中で、北海道大学に教育学部が創設され、音楽科が誕生した。教育学部の設置は昭和二十四年五月で、教育学科と共に音楽科、体育科が置かれ、二十五年から募集された音楽科の指導陣には、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)から移ってきた遠藤宏(美学、音楽史)、高折宮次(ピアノ)に加え、札幌在住の村井満寿(声楽)、筒井秀武(作曲)らが顔をそろえた。音楽科は別枠の存在だったためわずか三年間で募集停止となったが、六〇人に満たない卒業生たちは、その後の道内音楽界をリードする存在となり、広く活動を始めていった。北大音楽科は、札幌にプロの音楽家を生む土壌を作ったものとして、その後の音楽界に一つの役割を果たしたと言える。
特色ある活動のひとつに、谷本一之ら北大音楽科の学生たちのグループ「ノイエ・ムジーク」(ドイツ語で「新しい音楽」の意味)が開いた「現代音楽の夕」を挙げることができよう。戦前、伊福部昭、早坂文雄らによる新音楽連盟が九年に開いた「現代音楽祭」を「勝手に継承した」(谷本)もので、二十九年十一月から三十五年九月まで五回の演奏会を重ねた。
北大教育学部が募集を停止した後、それを引き継ぐ存在として三十一年に生まれたのが北海道学芸大学札幌分校(現北海道教育大学札幌校)の特設音楽課程である。同様のコースが全国六カ所に生まれた中の一つで、北大から移った指導者たちと以前から学芸大学で教えていた千葉日出城、横谷瑛司(ピアノ)、工藤健次(声楽)らが指導に当たった。北大からの移籍組は三十年代なかば前後に相次いで退き、その後を沼田元一、林靖子(ピアノ)、駒ケ嶺大三、雨貝尚子(声楽)、谷本一之(民族音楽学)らが受け継いでいった。