札響結成の動きは、昭和三十四年八月、札幌市文化会議の発議で市民オーケストラ設立の運動が始まったところからスタートした。三十五年十二月初めにHBC社長の阿部謙夫を会長とする設立世話人会ができて具体的な検討に入り、半年にわたる協議の末、設立にこぎつけた。
初公演は三十六年九月六日の第一回定期演奏会で、会場は開館から三年の市民会館だった。
写真-10 札響第1回演奏会(道新 昭36.9.9)
五一人の団員のうち正団員は一九人だけで、残る三二人はほかに職業を持つ準団員と正団員を目指す研究生という、プロ・アマ混成での誕生だった。そのことが、当初の名称である「札幌市民交響楽団」という名前にも反映されている。
正団員は道内外からの公募で採用された。七月に、常任指揮者荒谷正雄が開いていた札幌音楽院の二階に集まって結団式が行われ、九月の初公演目指して練習が重ねられていった。名称から「市民」がとれて「札幌交響楽団」となったのは、設立から半年たって財団法人化された三十七年三月一日のことである。
札響の初代常任指揮者に荒谷が就任したのは、設立に動いていた間の、いわば既定路線だった。財団法人化された時、理事長には阿部が就いた。一方、北海道銀行初代頭取の島本融は荒谷のヨーロッパ留学時代の知り合いで、札響設立時には道銀創立十周年記念とし楽器購入費五〇〇万円の寄贈があり、札響は幸先のよいスタートを切ることができた。
第一回定期演奏会では阿部謙夫と原田與作札幌市長が舞台あいさつし、満員の聴衆を前に荒谷の指揮によりモーツァルト「フィガロの結婚」序曲、ベートーベン「交響曲第一番」などが奏でられた。以降、八月を除いて毎月開かれる年間一一回の定期演奏会と、学校向けの音楽教室を中心に活動が続けられていった。定期演奏会には地元のソリストが多く起用され、札響が伴奏を受け持ってのオペラやバレエの公演が増えるなど、本格的なオーケストラが生まれたことによる効果は大きかった。
この時期の札響の活動を代表するものに、三十七年から三年間、地方オーケストラの先輩二団体である群馬交響楽団、京都市交響楽団との持ち回りで開いた「三市交響楽団特別演奏会」がある。文部省が主催する芸術祭の最初の年でもあった初回は十二月三日に群馬音楽センターで開催され、札響はモーツァルト「交響曲第三十五番〝ハフナー〟」ほかを演奏した。東京から聴きに来た評論家たちから「生彩がある」「のびやか」「自発性がある」といった高い評価を得た。第二回は三十八年十一月六日に札幌市民会館で開かれ、ホスト団体としての札響は広瀬量平「弦楽のためのファンタジー」ほかを演奏した。三十九年十一月二十六日に京都会館で開かれた第三回ではシューマン「交響曲第四番」ほかを取り上げた。いずれも荒谷の指揮だった。