昭和二十一年七月、前述したように、道展から日本画部が独立する形で北海道日本画協会が設立された。創立会員は、山内弥一郎、本間莞彩、高木黄史、川井霊祥、堀井象硯、小浜亀角等二一人であった。その後、高木黄史が脱退するなど会員の異動が続いたが、五年目の二十六年には五五人に達した。設立当初は創立展(七月)、小品展(八月)、秋季展(十一月)と、展覧会を三度も開催するなど活発な活動を行っていたが、道展日本画部の復興もあり、年々展示作品も少なくなっていった。
長く厳しい冬の寒さがニカワを使う日本画にとって悪条件であったことと、北海道の風土が洋画向きであったこと、この二つが北海道の日本画の発展を妨げていると一般的にいわれていた。しかし、この間、二十三年に本間莞彩が、三十二年には小浜亀角が院展に初入選し、「在道日本画家の中央進出の宿願がとげられ」た(美術史)。
北海道日本画協会はまた、付帯事業として北海道日本画研究所を開設し、二十一年七月から二十四年七月までを講義期間とした。事務所は南八条西九丁目の堀井象硯方で、教室は南七条西四丁目の豊川稲荷本堂となっていた。講師は本間莞彩、堀井象硯、高木黄史等協会の会員が務めた。同研究所は八〇人ほどの受講生を集め、二十二年、二十三年と北海道日本画研究所習作展を開催した。
日本画の研究団体としては、ほかに二十四年二月に結成された青盤社がある。西條正一、三井彩幹、西條良音、松村豊陽の四人を同人とし、同年第一回展を開催した。のち青盤社は青丘社(昭33)青東社(昭36)と改められた。二十五年には西條正一が道展の会員、三十年には三井彩幹が道展の会友となり、その後もここから道展の会員、会友となるものが増え、結果的に彼らは道展日本画部の再興に貢献することとなった。