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行政の動き

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 民間の活発な運動に刺激された北海道教育委員会は、三十七年六月に社会教育施設設置審議会を発足させ、道や開発庁に対して博物館、美術館の設置を強く要求していくこととなった(道新 昭37・7・6)。七月十日に第一回目の会合が開かれ、「博物館、美術館、文化会館、図書館などの建設、整備はどのようにしたらいいか」という諮問についての審議がなされた。その後、十月十六日の第二回審議会において美術館、博物館、文化会館等四つの小委員会が設けられ、本州各地の博物館、美術館を調査するための調査団が二班編成された。調査団は、十一月中旬より本格的な調査を開始することとなった(道新 昭37・10・25)。
 三十七年七月十日の閣議で「第二期北海道開発八カ年計画」が決定したが、この中ではとくに「社会生活の基盤の整備」が重視され、北海道経済の高度化にともなって道民の文化、福祉施設の向上が考えられた(道新 昭37・7・11)。計画の最終年度である四十五年までに博物館、美術館の設置を実現しようとするもので、社会教育施設設置審議会や美術館建設期成会等の活動と相まって、美術館建設へ向けての動きは一層活発になっていった。
 七月三十日には、美術館建設問題について、来道中であった福原匡彦文部省社会教育課長と稲垣守道教委社会教育課長、期成会との話し合いがもたれた。これは、主に文部省側の考えを聞くためのものであった。結果、道の態度がはっきりすれば国庫の補助が期待できるということで、道側の方針決定が重要とされた(道新 昭37・7・31)。
 このように行政側も美術館建設に乗り出したため、それぞれの意見を調整して基本方針をまとめる必要性が出てきた。社会教育施設設置審議会は三十八年三月三十日に、これまで行ってきた他府県の関係施設の調査や北海道の実情についての中間報告を行った。この報告をさらに煮詰めた後、道に対して最終の答申案を決定、提出した。答申は、美術館の建設時期と場所は未定としながらも、「美術館として完全な機能をそなえ、北海道に即した道立美術館を、できるだけ早く札幌に建設する」という基本方針を打ち出したものであった(美術史)。しかし、美術館建設運動は主に道の財政難が問題となってその後も進展せず、しばらく膠着状態が続いた。