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北海道立美術館の開館

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 この膠着状態を打開したのは、三岸好太郎の遺作二二〇点が札幌市に寄贈された一件であった。昭和四十年七月十四日から八月十四日にかけて、北海道拓殖銀行札幌南支店ビルにおいて三岸好太郎回顧展が開催された。この時、三岸節子夫人から町村金五知事へ遺作寄贈の意向が伝えられたため、知事は「これをきっかけに美術館をぜひ建てたいと決意した」(道新 昭40・9・22)。しかし、この年は四十一年度予算に調査費が計上されたのみに終わっている。依然として道の財政難が原因で建設のめどが立たない状況であったが、四十二年になってようやく進展が見られるようになった。
 その頃道立図書館(北一西五)が江別市野幌の新館へ移転することが決まっており、残った建物を改修して美術館として利用しようという話が持ち上がった。内部改造と防湿、暖房設備などの費用四〇八四万円、運営費八七五万円の計四九五九万円が、四十二年度の道予算案に初めて計上された(道新 昭42・2・23)。こうした動きを受けて、四十二年七月十二日には三岸節子夫人より正式に作品が寄贈されることとなり、神奈川県立近代美術館において目録の贈呈式が執り行われた(道新 昭42・7・13)。そして、改修工事と作品の搬送作業が終了するのを待って開館の運びとなった。工事が完工したのは七月二十八日、作品が美術館に到着したのは八月九日であった。
 四十二年九月三日、待望の道立美術館が開館した。展示室は二階と三階にそれぞれ大展示室と小展示室、計四つが設けられたが、ここに三岸の作品油絵六一点、デッサン一六〇点が展示されると、大展示室二つと小展示室一つがほぼ一杯となる。名称は道立美術館となってはいるが、もともと三岸の作品を収蔵するためのもので三岸記念館の性格が強かった(道新 昭42・8・25)。
 ようやく開館したものの、会場の狭さから道展等が開催できない上、作品寄贈の際の取り決めにより、一年の三分の二以上の期間は三岸の作品を展示しなければならず、道内の展覧会は他に会場を借りる始末であった。こうした事情から、札幌オリンピックの開催を期に新たに美術館を建設しようという動きが起きた(朝日 昭44・1・20)。この新たな運動は、五十二年北海道立近代美術館の新設によって実を結ぶこととなる。

写真-11 北海道立美術館(昭44)