戦争突入後、五條君が北海道へ帰るというので、徹宵して地方演劇の在り方などについて話し合い決別した。その後、五條君は北海道で移動演劇隊を組織して北海道一円を巡演し、私は東京で移動演劇団のメンバーになり、日本中を歩き始めたが、そのうち例によって私は芝居がいやになり、というよりは北海道で頑張っている五條君が恋しくなり、鉄かぶとも制服もおっぽりだして北海道へ逃げた。そして五條君の肝いりで、上野妻二郎一座の演出を担当して北海道の田舎回りをしているうちに遠軽町で終戦となった。その一座の仲間たちは多少茫然としていたようであったが、もともと反戦者であった私は、ときの国家権力に向って「ざまあみろ」と叫びつつ、その一座に別れを告げて札幌に戻り、こんどは「自由劇場」結成の段取りを五條君と始めたのである。
二十年十一月結成された自由劇場は稽古場を転々としながら二十一年四月、金子洋文作『息子』と藤森成吉作『若き啄木』で旗揚げする。十二月には、三好十郎作『稲葉小僧』、八木隆一郎作『故郷の声』、ミュラー作『荷車』を公演。会場はいずれも美満寿館である。『荷車』が炭鉱を中心に四〇カ所あまり巡演するなど、自由劇場はプロ劇団を目指して活発に活動する。かたわら五條は、札幌演劇懇話会を発足させ、働くものの演劇祭(二十一年六月)の開催を推進したり、炭労演劇サークルの指導や児童劇団ともだち座の演出など幅広く活動する。