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放送劇団

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 昭和二十四年までに、北海道内の各都市(札幌、釧路、函館、旭川、帯広、北見、室蘭)に朗読研究会が生まれている。ここではNHK各放送局のアナウンサーやプロデューサーを講師として俳優やナレーターが養成され、番組に出演するなかからそれぞれ放送劇団へと発展した。札幌朗読研究会が発足したのは二十二年九月である。二十六年七月には発展的に解消して、札幌放送劇団研究生を募集した。多数応募のなかから第一期生として一二人が選ばれ、養成期間を経て二十七年五月、NHK札幌中央放送局の専属劇団として札幌放送劇団が創設された。研究生制度は第一〇期まで続けられ、劇団員は訓練を受けた専門俳優としてラジオドラマにとどまらず活躍の場を広げ、三十年からは年一回の舞台公演を開始した。三十一年からはテレビドラマの制作も始まり、芸術祭での度重なる受賞が全国にNHK札幌の存在を示した。またこの頃、北海道で俳優や脚本家を志す者にとって、NHKは全国に通じる登竜門、レベルの試金石としての位置づけがあった。初期団員のなかには、後に東京で活躍する俳優、声優の牟田悌三若山弦蔵白坂道子をはじめ、脚本の高垣葵石山透横光晃らの名がある。主な劇団員は大橋英子、坂内弘治、菅原澄子、関口正幸、丸谷小一郎、高木孔美子、松井信子、八木原敬、扇谷治男。主な舞台は『毒薬と老嬢』『罠』『血の特集号』『映画に出たい』などであった。平成二年解散。
 一方、札幌における民間放送のスタートは、二十七年三月の北海道放送(HBC)開局である。HBCは放送開始に先だち、タレントの短期養成を目的として二十六年暮れに放送劇団員を採用した。応募三百余人のなかから東庄美恵子等、女性五人が採用となって開局を目指し、講師は長光太、関口次郎、渡辺孚、新妻博等だった。開局後、HBCは劇団員と一般参加者を対象に俳優座の河道昌夫を講師に招いて「HBC演劇学校」(二十七年七月~九月)を開催。これをきっかけとして二十七年十月「HBC演劇研究所」が発足した。月曜から土曜の毎日、朝十時から夜六時まで、呼吸体操、発声訓練、意志動作の体系、身体的行動ⅠおよびⅡ、表情訓練扮装、マイク研究、演出研究、脚本研究、戯曲論、演劇史、心理技術研究、継承(狂言、仕舞、茶道、浄曲、落語)、デザイン・クロッキー等のカリキュラムが組まれ、研究所長の長光太をはじめ、臨時講師として来札した劇作家久保栄、東京芸術座の演出家八田元夫、俳優座村瀬幸子、演出家山口純一郎らによる指導は、劇団員、研究生に大きな感銘を与えた。北海道における本格的演劇研究機関としてHBC演劇研究所は三十一年まで続いた。二十八年に新設され地元から多くの作家を生んだ「HBC小劇場」をはじめとするラジオドラマ、三十三年から本格的に始まったテレビドラマがHBC放送劇団の活躍の場だったが、四十年四月、長光太の離道に伴い劇団は解散した。巣だった顔ぶれには、本多劇場オーナーの本多一夫、演出家藤原千晶、俳優等で活躍する岡部政明、岡村春彦等がいる。また主な劇団員は、東庄美恵子、安田稔、田森一郎、関口正幸、末吉敏男などである。