講談社は昭和二十年五月、冨貴堂書店(南1西3)の一部を借りて事務所を開設した。本社が札幌での出版を急がせた理由は、平澤秀和「札幌講談社と出版物」によると、軍に納入する「恤兵文庫」(昭19・9創刊 産報文庫の改題)の刊行にあったようである。講談社得意の出版分野であった娯楽系の読み物が、戦陣の兵士達に喜ばれていたためであるが、『愛憎の書 上巻』(昭20・8・10)が刊行された五日後には終戦を迎えることとなる。下巻が刊行されたのは三カ月後の十一月十一日で、のちに「札幌版」と呼称されるようになる戦後出版物の第一号となった。二十一年の後半からは「札幌講談社」と称し、およそ五四点の出版物を刊行したが、二十五年秋には札幌での刊行を終えた。
青磁社は二十一年、南八条西五丁目に開設し「札幌青磁社」の名称で同年四月より刊行を開始した。出版活動が確認されている二十四年秋まで、およそ八〇点の単行本と一点の詩誌が発行されている。この出版点数は、疎開系出版社で最多であった(以上は譚2号、3号を参照した)。
二十二年になると東京の復興もあり、疎開していた出版社は引き揚げを開始した。札幌青磁社はこの時引き揚げこそしなかったが、二十三年以降は発行所名を「青磁社」に統一して奥付に東京と札幌の所在地番を併記することとなった。しかし、二十四年、デフレ不況と予想以上に早い東京の復興により、ついに札幌での刊行を中止して東京へ引き揚げた。