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札幌神社から北海道神宮へ

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 戦後一〇年を経て、社頭の賑わいは復活しつつあったが、神社神道としての教化活動には「大きな悩み」と「神社の危機」をかかえていた。新聞の報じる祭典や初詣、結婚式の盛況とは裏腹に、実際には、例祭を行い、神職を養って神社を維持していくのが精いっぱいであり、「布教活動などほとんどできない」状態にあった(道新 昭30・3・28)。
 神社本庁は、昭和三十一年に「敬神生活の綱領」を発表して教化活動の推進を促したが、北海道神社庁では道内各支部からの負担金未納に悩み、二十九年の「神道昻揚資金」をはじめ、神社本庁からくる各種の募金を完納することができなかった。三十三年には、札幌市を会場として第九回東北・北海道神社庁関係者連合大会が開催されたが、当初は出席申し込みが少なく、支部からの提案や意見発表の申し込みも皆無の状態だった。結果的には札幌支部一三〇人の出席を得て北海道二〇〇余名の参加となり、「紀元節の法制化促進について」の提案、「国旗の尊重について、神職の再教育について」などの意見発表もあって、面目を保つことができたという(神社庁誌)。
 こうしたなか、札幌神社では、戦前からの宿願であった明治天皇を増祀して(市史第四巻 一〇五一頁参照)、社名を北海道神宮もしくは札幌神宮とする計画が二十八年から検討されていた。三十年の新聞は、「誕生近い『北海道神宮』」の意図を、
道民全部を氏子とする新しい体制をつくらねばならない。北海道民全部の神社として、全道を対象とした教化運動を展開する、というのがこれから生まれようとする神宮の抱負となっている。

と紹介している(道新 昭30・3・28)。
 しかし、この時の祭神増祀・神宮改称の運動は、中心となった責任役員の死去、宮司の退任によって停滞する。さらに三十二年には、神社本庁総長から「貴社のご由緒に相応する特殊な手続きを経る必要」があること、「貴社としては申請の趣旨にふさわしく道内挙げての赤誠を結集して、諸態勢を整備されること」と通知を受けた。神社側は、後者の「諸態勢を整備」するとは、奉賛会を早く結成して社殿を造営すべきことと理解し、その実現に取り組むことになった。三十四年には「ご鎮斎九十周年記念祭」を行ったため、札幌神社奉賛会が結成されるのは三十六年のことである。この年、国土緑化大会に出席する昭和天皇の北海道行幸があり、札幌神社への参拝も行われた。奉賛会は総裁に北海道知事をおき、道内の市町村長、商工会議所会頭および篤志有力者などが顧問となるもので、折からの高度経済成長の波にのって一億三六四五万円余の募財活動を展開した(神宮史)。
 本殿の改築は三十七年に始まり、あわせて神社本庁へ「札幌神社に明治天皇をご増祀し北海道神宮とご改称方申請の件」を提出した。三十九年十月五日、新社殿において明治天皇御鎮座祭が行われ、ここに北海道神宮としての新たな歩みがはじまった。

写真-3 北海道神宮となった頃の社殿(昭39)