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活動の再開

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 戦争による罹災がなかったとはいえ、札幌のキリスト教活動が終戦と同時に活発になったわけではない。この年は、礼拝やミサへの出席に社会的な束縛がなくなったにとどまり、諸教会が体制を立て直すのは、翌年に持ち越されたようである。
 カトリックでは、昭和二十一年(一九四六)四月に第二次大戦で帰国できずにローマにとどまっていた浅井正三三原武夫田村忠義が帰国した。札幌地区のカトリック教会は少壮の三司祭を迎え西創成国民学校を会場に宗教大演説会を開催した。テーマは、共産主義思想批判であったと思われる。この大演説会への取り組みを契機に青年達の活動が活性化したという。
 正教会も敗戦時は、聖餐のためのパン・ぶどう酒の入手が難しく、ローソクも不足がちで奉神礼(礼拝)の参禱者も数人にとどまり、教会としての行事も途絶えた状態であった。しかし、二十一年八月には、日曜学校教師講習会を開き、青年を中心に日曜学校の再開を準備した。当時、正教会の降誕祭は年頭であったが、二十二年一月には、長い間教会から遠ざかっていた信徒も戻り、聖堂を埋め尽くすほどの参禱者があった。降誕祭では、「幸いにして今は全信徒が新しい、そして明るい信仰の灯に輝いている……楽しく雄々しく正教会再建のために努力することを約束しましょう」と誓われた(札幌正教会百年史)。
 戦後、札幌でも組織的に伝道活動を再開したのはプロテスタントで、二十一年四月に日本基督教団新日本建設キリスト運動が、道内でも取り組みの準備を始めた。八月に来札した賀川豊彦の集会は西創成国民学校などを会場に、二回の集会が各一〇〇〇人を越える集会となった。この運動は、二十三年まで道内各地で行われ、毎年三、四〇回の集会に延べ二万余の聴衆を得たと報告されている。その後は、賀川豊彦と讃美歌指導の牧師黒田四郎のコンビによる伝道が盛んに行われた。教勢を回復しつつある中で札幌教会の牧師白戸八郎は、昭和二十一年の特筆すべきこととして、天皇の人間宣言、新憲法の公布についで、「基督教が恐るべき偏見から解放せられ、伝道の門戸が拡大された事」を挙げた。同教会のクリスマス礼拝では二七人が洗礼を受け、クリスマスの祝会には四〇〇人以上が集まる回復ぶりであった(札幌教会百年の歩み)。

写真-8 新日本建設キリスト運動のポスター