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広がりの中で

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 社会との接点では、市民に対するキリスト教の影響として戦後のキリスト教主義学校の存在も見逃せない。戦前は、北星・藤・光星の三校であったキリスト教主義学校は、戦後の新しい教育制度の下で拡大した。昭和四十五年までの間、プロテスタント系では北星学園が二十六年に女子短期大学、三十七年には大学を開学して三十九年に大谷地に移転し、男子高校を琴似に新設した。カトリック系では、藤学園が二十五年の女子短期大学、三十六年に女子大学を開学し、同じく天使学園も二十五年に女子厚生短期大学(現・天使女子大学)を開学させた。
 このほか、カトリックの札幌聖心女子学院が三十八年、宮の森に開校した。当初は小中学校を開設、のちに高等学校を加えた。またプロテスタントのセブンスデー・アドベンチスト教会も二十六年、日本三育学院札幌教会小学校(現・札幌三育小学校)を設立した。これら教育機関は、キリスト教への入信を直接の目的とはしていないが、学校においては日常的に聖書・讃美歌に触れ、キリスト教的な行事に参加し、キリスト者の教員・友人との人格的関係を持つ機会となり、ひいては教会の礼拝など諸集会に出席する契機となるなど、教会への橋渡しの役割も果たした。
 昭和三十年代後半(一九六〇年代)を通じて、キリスト教会もキリスト教主義学校も多様な姿をとって市内に拡大していった。その多くは周辺の発展という札幌の変化に即応していた。
 この一端が市の中心部に起こった会堂をめぐる景観の変化である。大通公園・北一条通と創成川が交差する市の中心部には、明治三十年代後半から昭和初期(一九〇〇年代後半~一九三〇年代半ば)にかけて戦前来の教会が集中し、会堂が随所に見られる個性的な景観を形づくってきた。これが三十七年、大通西七丁目のクラーク記念会堂に拠った独立教会が大通西二二丁目へ移転したことをはじめとして、変化を見せるようになった。四十三年には大通西一丁目の赤れんが造りの会堂を持つ北光教会が、敷地の西半分を売却し新会堂を建築した。南七条東一丁目のハリストス正教会もオリンピックのための道路建設に敷地が必要とされて土地を売却し、四十五年に顕栄聖堂を取り壊して、翌年福住に新しい聖堂を建築、移転した。いずれも大通・創成川に面し独特の画題となっていた光景であったが、姿を消した。こうして四十五年(一九七〇年代)以降、それぞれの教会は、新しい地での宣教の課題に取り組むこととなる。