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バブル経済の時代

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 昭和六十年から中曽根康弘内閣のもとで「民活路線」が推進され、日本電信電話公社、国鉄が民営化に移行していく一方で、円高が加速し、土地・不動産投機による地価の高騰が続き、さらに総合保養地整備法(リゾート法、六十二年)の施行が拍車をかけバブル経済が始まっていった。
 市内の商業地、住宅地を問わず地価は天井知らずの高騰を続け、都心部には買い占められた更地がまだら状に点在する光景をみせるようになった。
 六十三年はそのピークともいえる。依然として人口が増え続ける札幌市は二月に一六〇万人を突破し、青函トンネルが三月に開通して本州とつながり、空の玄関新千歳空港が七月に開港し、市内では念願の函館本線の高架化がなり、新たな札幌駅が十一月に開業し、三本目の地下鉄となる東豊線も十二月に開業していた。新千歳空港とを結ぶリニアモーターカーの敷設、ホワイトドームの建設などの夢プランも浮上していた。六月に開幕した「世界・食の祭典」は、「飽食」の時代を象徴するものであった。
 しかし、時代は昭和から平成へと移り、平成二年二月に株価の大暴落よりバブル経済ははじけ飛んでいく。政府は公共投資によって経済を支える方針をとり、札幌市でも大型の施設、大規模な建設工事が継続されたが、景気の回復はみえてこず、かえって将来の財政危機を招く要因となった。バブル経済の崩壊により道内各銀行が、四年には大幅な減益となり、道内最大の北海道拓殖銀行も不動産会社カブトデコム、リゾート会社エイペックスへの融資で厖大な不良債権を抱え、経営が極端に悪化し破綻の道をたどるようになった(平成十年十一月十三日営業終了)。永らく廃止・統合が議論されていた北海道開発庁も、十三年一月に国土交通省へ統合となる。北海道の経済・開発を象徴する両者の消滅は、一つの時代の終焉を告げるものであった。
 平成五年には自民党による単独政権が終わり、日本の政治も連立政権の時代へ入っていた。