冬季オリンピックのために手稲山、恵庭岳の自然が破壊されたことは、大きな教訓となりこれ以降は緑の保全が緊要の課題となっていた。すでに採石事業で緑が失われた三角山の植樹事業も、市が三角山を買い上げて四十五年から始まっていた。それでも開発行為による自然破壊は続き、しばしば問題となっていた。たとえば、五十一年に真駒内の桜山(緑ヶ丘)への新道建設と保安林の一部解除に対し、住民でつくる真駒内環境保全懇話会が反対運動をしていた。手稲山に新スキー場の建設に際しても反対運動が起こり、王子緑化と手稲山の緑を守る市民会議は、五十一年八月十八日に施設の規模、植林化計画などの合意事項をもりこんだ確認書を交わし合意に至った(道新 昭51・8・19)。札幌リゾート開発公社による朝里岳のスキー場開発に対しても五十二年、札幌地区労、朝里岳の緑を守る市民会議、札幌周辺の自然を考える会、道自然保護団体連合などが反対に立ち上がっていた。札幌市、同公社と関係団体との話し合いは、五十三年二月十三日に公社と協定書、市と確認書を交わし解決し(道新 昭53・2・14)、札幌国際スキー場は同年十二月二十日にオープンをみる。四団体は五十二年に小樽内ダムの建設でも反対し、五十三年九月三十日に北海道開発局石狩川開発建設部、札幌市と話し合いがついていた(道新 昭53・10・1)。
札幌市がオリンピックの再招致に失敗した遠因にも、やはり自然保護の問題がある。これ以降、道内の広がる自然保護運動も、もとはといえば札幌を原点に広がったものとみなすことができる。
道路建設でも、円山地区住民が市道環状通、福住では羊ヶ丘通の建設反対運動も起きていた。札幌市は住民運動が少なく、行政との深刻な対立の少ないところであったが、この時期、緑・自然、住環境のことで運動が集中的に起きていた。藻岩山を守る会も五十一年五月十五日に発会していた。
一方、環境の再生では、カムバック・サーモンの運動がみられた。豊平川に再びサケを取り戻そうと「さっぽろサケの会」が、五十三年十月二十八日に結成され、翌春にサケの稚魚を放流し、五十四年九月には二五年ぶりにサケの遡上が確認されていた。サケの回帰を願う東白石小学校の児童は、雁来堰堤にサケの魚道設置を希望する手紙を総理大臣(鈴木善幸)へ書いて「直訴」し、これにより五十七年に改修予算が付いていた(道新 昭57・3・27)。アイヌ民族によりサケを迎える儀式が、五十七年九月十五日に一世紀ぶりに復活し、豊平川さけ科学館も五十九年十月六日に開館するようになる。
写真-3 子どもたちによるサケの稚魚の放流
「好きですサッポロ」は、五十五年七月の札幌市の観光月間のキャッチフレーズであったが、札幌を愛する市民は色々な場で声をあげ、活動を展開する状況がみられるようになっていた。
山林地域のみならず、市内の住宅地域でも開発にともない緑は減少していた。それに対応して札幌市では、五十二年四月に緑化推進条例を制定する。五十七年二月には札幌市緑の基本計画を策定し、都市を取り巻く緑(自然)の保全、都市の緑の推進、緑の活用を図るビジョンを示すとともに、環状グリーンベルト構想をたちあげていた。環状グリーンベルトは、手稲山、藻岩山、石山、西岡、野幌の山地丘陵系、米里、北東部、北西部、手稲の平地系の八緑地ゾーンを公園開設によって拠点的な施設緑地とする一方で、八緑地ゾーンを環状的にむすび、巨大な緑で札幌市を包みこむ計画であった。五十八年七月十六日に環状グリーンベルトの起工式を行い構想に着手され、この構想によって石山緑地、平岡公園、川下公園、モエレ沼公園、サッポロさとらんど、百合が原公園、前田森林公園、星観緑地などが開設され、現在もこの壮大な計画は営まれている。
札幌市の緑化推進への取り組みは、五十四年三月三日に緑のセンター、五十九年四月二十九日に平岡樹芸センターの設置、六十一年の「全国都市緑化札幌フェア('86さっぽろ花と緑の博覧会)」開催などにみられている。札幌市は五十七年に都市景観賞を設け、建物のデザインの他に緑の配置を評価基準に加え、マチの緑の創出を図っていたが、札幌市の公園面積総数は大都市の中で一位であり、緑豊かな都市づくりは重要な市民コンセプトとなっている。