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四十六年市長選

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 昭和四十六年(一九七一)の市長選は、保守候補と革新統一候補の対立となった。四十二年の東京都知事選で社会、共産両党と労働組合、民主団体、学者・文化人などを結集した「明るい革新都政をつくる会」が結成されるなど、この頃より各地で「明るい会」方式によって革新統一候補が擁立され始め(日本現代史)、今回の札幌市長選でもこの方式が採用された。社共両党は当初、それぞれ大内基(北海道政治経済研究所所長、元北海道新聞論説委員)と多田光雄(共産党北海道地区委員会常任委員)を候補としていたが、一月下旬に共産党側からの申し入れによって交渉が始められた(道新 昭46・1・30夕)。交渉は政策や大内を統一候補とすることでほとんど一致しながら、社会党系の「市民参加の市政を実現する会」をそのまま確認団体とするか、新たな共闘組織を作るかで一時行き詰まったものの、結局四月八日、「市民参加の市政を実現する会」と同名で、社共両党、地区労、文化人などが幹事として入る新たな共闘組織を作ることで合意がなった(道新 昭46・4・8)。
 保守陣営は、第一助役であった板垣武四を擁立した。板垣の他に、市収入役中島好雄(前札幌市教育委員会教育長)が原田與作市長の後継者として取り沙汰されていたが、保守陣営内の調整がなって板垣が出馬することとなった(板垣武四 思い出すまま)。板垣は選挙前年の十一月に助役を退任し、原田市長の選挙母体である「市政懇話会」を引き継いで選挙戦に臨んだ。原田市政末期に政治争点化した老人医療費、ゴミ手数料問題について、原田市長は無料化に難色を示していたが、市民生活や福祉の向上を目指す革新候補に対抗するために、板垣陣営は選挙公示直前に急遽それらの無料化を公約に盛り込んだ(道新 昭46・4・27)。
 四月二十五日の市長選は、板垣二三万一三七六票、大内二二万三九四四票というわずか七〇〇〇票余りの僅差で板垣の勝利という結果に終わった。得票率は、板垣五一パーセント、大内四九パーセントであり、札幌市長選史上、もっとも保革の得票率が接近した選挙であった(図1参照)。

図-1 札幌市長選保革得票率