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芸術文化都市づくり

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 新しい都市づくりの第一は芸術文化都市づくりであった。昭和五十二年、札幌青年会議所(徳丸義明理事長)から板垣市長に対してフラワーパーク、アートパーク造成案が示され、板垣市長はこの提案に魅了された(思い出すまま)。アートパーク構想は、五十八年三月に「芸術村構想」としてまとめられた。市は三期一五年計画で五十九年八月に着工し、六十一年七月二十七日、南区常盤・石山地区に「札幌芸術の森」がオープンした。
 板垣市長は五十三年市議会第三回定例会で国立芸術系大学の誘致を表明したが、それは国の認めるところとならなかった。しかし、六十一年の臨時教育審議会第二次答申が高等専門学校の分野拡大を提言したことから、国立芸術系大学をデザイン系の市立高専に切り替えて設置を追求し(十七期小史)、平成三年四月に札幌市立高等専門学校が開校した。
 世界三大教育音楽祭の一つであるパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)第一回が平成二年に札幌芸術の森で開催され、翌年以降も継続されている。
 昭和六十三年度より市は札幌芸術の森隣接地に新しい芸術文化の創造と経済活性化を目的としたアート団地の造成を始め、平成二年度から分譲を開始した。同年十月正式名称をアートビレッジとし、翌年より音楽、映像などの芸術関連企業の建設が開始された(十七期小史)。札幌芸術の森、アートビレッジ、市立高専が集まる地域に芸術ゾーンが形成され、札幌市の芸術文化都市づくりのためのシンボルと拠点が生み出された。