石油ショック以降の数年間、不況とインフレーションが併存した状態は「スタグフレーション」とよばれた。高いコストで生産は伸びず企業は「減量経営」を余儀なくされた。図3の手形交換高をみると、この時期には前年割れが五度あるが、昭和五十年は第一次石油ショックの遅れた影響、五十四年は第二次石油ショックに該当する。五十八年、五十九年、六十年には三年連続前年割れがみられ、表6によると、五十七年、五十九年、六十年には札幌の実質経済成長率が全国を下回っている。また図3の製造品出荷額、大型小売店販売額も伸びてはいるものの伸び率は鈍化した。
この時期の札幌経済の不振の原因は、まず、住宅建設の不振、建設需要の低迷であろう。建築着工面積は、五十七、五十九、六十年に前年比マイナスとなり(統計書)、市内総生産における建設業の伸び率は五十七年にはマイナス四・五パーセントを記録し、五十八年、五十九年も一・七パーセント、一・三パーセントと低迷した(札幌市民経済計算年報 各年度)。この原因としてあげられるのは公共投資の減少である。五十七年の実質経済成長率の増加寄与度をみると、民間支出は四・〇パーセントあるが、公的支出はマイナス〇・五パーセントであり、その後も公的支出は五十八年〇・九パーセント、五十九年〇・六パーセントと停滞している(札幌市民経済計算年報 各年度)。政府は「増税なき財政再建」をスローガンに財政の抑制に努め、北海道開発関係予算も低迷していたのである。製造業も低迷を続け、製造品出荷額は五十五年~六十年までの六年間に四・九パーセント伸びたにすぎなかった(統計書 各年)。
低成長期には、大型倒産も相次いだ。不動産のユーアンドアイ・マツザカ(昭51・11)、業界最大手の松岡満運輸(昭53・4)、岩沢グループの一連の倒産事件で札幌トヨペット(昭56・3)、そして製菓業界老舗である古谷製菓(昭59・5)などである。