札幌市工業基本計画は工場の大規模な移転計画であったが、その後の事態は移転の条件を狭めてしまった。たとえば、札幌市内の工場の原材料の仕入先を調べたところ、「市内の商社等、市内の生産者等」の比率が昭和四十八年調査の五二・四パーセントに対して五十三年調査では七五・六パーセントに上昇している。移転希望地区のアンケート結果は、回答した七三四工場のうち「市外希望せず」が五九・一パーセントと過半をしめ、とりわけ石狩湾新港をあげるものは七・四パーセントと少なかった。工場移転意志の有無では、「移転希望せず」が四十八年の六二・八パーセントから五十三年の七〇・三パーセントへと増加したのである(札幌市経済局商工部工業課 札幌市工業の実態(札幌市工場実態調査結果報告、札幌市製造業実態(経営者の意識)調査結果報告) 昭54)。五十年代の低成長、長引く不況も工場移転を阻害していた。
昭和五十五年に発表された新札幌市工業基本計画では、工場再配置計画は大幅に修正された。とりわけ「消費地密着型小規模工場」は現在地から分離するのではなく、その地域内で再配置する方が適切であるとの結論に達している。したがって、工場再配置方針として、市内工業団地へ、市外工業団地へ、地域内再配置の三方向が提起された。札幌市工業の位置づけも改めてなされている。すなわち札幌圏および札幌市への人口集中を踏まえ、「北海道開発の核になると考えられてきた苫小牧東部、石狩湾新港後背地の工業基地や、空知中核工業団地等への工場進出が予定通り進行していない状態のもとで、北海道開発の一層の発展のためにも、札幌圏そしてその中心の札幌市が、集積効果と北方における総合機能都市としての特性を十分に生かして」いくことが求められたのである(札幌市、札幌商工会議所 新札幌市工業基本計画 昭和55)。