市は昭和五十六年から発寒地区第三工業団地の分譲を開始したが、翌年五月時点で応募はゼロだった。小規模工場でも移転費用が最低一億円といわれるなか、市の移転資金融資額も五〇〇〇万円から七〇〇〇万円に引き上げ、入居条件についても市外企業をも認めるなど緩和したが、結果は思わしくなかった。分譲価格は一平方メートルあたり三万円を超え、札幌市外に土地を取得した方が安かったのである(道新 昭57・5・28)。しかし、バブル経済期には工業団地の売れ行きも回復した。市内の工業団地は一般産業向けで一一に達した(先述の八工業団地に発寒地区第三、発寒地区第四、米里北地区が加わった)が平成元年六月以降「売るものがない」状態が続いており、市は十二年までに一〇〇ヘクタールの団地面積が新たに必要との認識を示した(道新 平3・12・25)。三年には新川工業団地造成が計画され、食品、木工、印刷、金属など地場企業の立地が見込まれていた(道新 平3・5・29)。ところが、新川工業団地造成のための用地買収が難航した。五年に入っても予定の一割しか買収が完了していなかった。原因は、農地の代替地獲得難と買収価格の安いことであった。市は、造成計画を二年遅らせることとし、買収に努めた(道新 平5・3・18)。
そして、バブル崩壊後には、今度は分譲価格が高すぎることが障害となり、分譲価格値下げを余儀なくされる。八年九月には、分譲中の米里北地区工業団地の三・三平方メートルあたり平均二九万円という分譲価格を五万円引き下げることとなった。工業団地の分譲価格値下げは道内で初めてだったが、市側は「売れない土地を長期間抱えているより、価格を見直して早期分譲を図った方が経済波及効果など、メリットが大きい」と説明した(道新 平8・9・6夕)。苦労して造成した新川工業団地も、造成原価が三・三平方メートルあたり二二万五〇〇〇円となったが、周辺の地価との関係で、分譲価格は原価を下回らざるを得ないとの見通しが示された(道新 平9・3・15)。ところが新川工業団地への移転を計画していた発寒木工団地の木工関係二九社は、資金源となる旧敷地売却が進まず、移転を断念した(道新 平9・11・5)。結局のところ、分譲最終年度の十年度にいたり、一一・一ヘクタールのうち〇・九四ヘクタールしか売却が決まらず、市は新川工業団地特別会計を年度内で閉鎖する方針を明らかにした(道新 平10・10・15)。平成不況下で新たな工業団地造成は冬の時代を迎えたのであった。