一方地下鉄開業以来、都心部では本州資本の大型店出店が相次いだが、昭和五十一年ごろからは郊外周辺部への出店が本格化した。これは都心部の地価高騰と郊外での人口増加、郊外周辺部における小売店不足、地下鉄網の整備、車社会の進展などにより、郊外で大型店を出店するのに有利な条件が整ったことによるものであった(市勢要覧 昭51、53)。
四十八年十月四日、西武流通グループにとって全国一二一番目、道内一号店として「ショッピングタウン月寒(西友)」が豊平区月寒中央通九丁目に開店した。しかし地元の月寒中央商店街振興組合は、大型店の進出が必ずや売り上げに影響するとしてこれに反対し、開店日直前の九月二十八日にようやく営業規制に関する協定書を交換し、両者の妥協が成立した。その内容は①当初営業面積を三〇〇平方メートル削り、一年後に回復する、②営業時間を午前一〇時から午後六時までとする、③休日は来年三月までの間、毎月二回と第五木曜日とする、④地元商店街から社員を引き抜かない、⑤乱売、誇大広告はしない、⑥話し合い継続のため月寒商店街振興研究会を発足する、⑥煙草、米、塩、酒は当分の間販売しないというものであった(道新 昭48・9・29)。しかし開店一カ月で西友は「三億円もうけた」といわれ、一方地元小売店のうち食料品、衣料品は平均一~二割売り上げが減少し、さらに隣接する市民生協中央月寒店も大幅増築で対抗する構えをみせた。しかし西友で扱っていない酒、たばこ、スポーツ用品を扱う店では、都心部と地元商店街の商圏競争における西友の集客力に期待するむきもあり(道新 昭48・11・13)、結局郊外への大型店出店は、郊外における顧客の奪い合いとともに、都心部と郊外周辺部の対立を顕在化させることとなった。
その後も郊外大型店の出店は地元商店街との対立を生じ、時には商店街との合意がなされるまでに一年以上かかる場合もあったが、基本的には売場面積の削減や営業時間短縮、休業日数の確定、不当廉売や従業員引き抜きの禁止、そして大型店自体に進出地域での積極的な街づくりへの参加を求めることで合意に達することが多かった。また同じ地域の商店街でも、大型店に核店舗としての集客力を期待し、またテナントとして入店できる商店街と購買客を奪われ全くメリットのない商店街では意見に対立が生じ、地元住民には利便性や物価抑制の観点から大型店の出店を要望する声さえあり、地元商店街との摩擦を生んだ。さらに同一地域内に出店した大型店間の競合も始まった。一方大型店の出店は都市計画とも関係し、札幌市自体も昭和四十三年に策定した厚別副都心開発基本計画の一部として、札幌副都心開発公社を中心に、五十二年六月十日ダイエーを核店舗として「サンピアザ」をオープンし、五十七年六月一日にはダイエー初の本格的百貨店「プランタン新札幌」が併設された。
このような大型店問題は全国的なものであり、四十九年三月大規模小売店舗法が施行され、大型店の出店を一定程度規制した。また札幌でも五十一年十二月一日、大型店の出店と周辺の中小小売業者との紛争を未然に防止するため「札幌市大型店舗出店指導要綱」などを制定し、一五〇〇平方メートル以上の店舗面積を有する大型店舗を新設、増設する場合、出店計画を建築確認申請時の三カ月前に市長に届け、紛争のおそれのある場合は、出店者、地元小売業者、消費者から構成される「地三協議会」を設置し、当事者の話し合いによって紛争の解決を図ること、また「地三協議会」で解決できなかった場合には、商工会議所に設置される商業活動調整協議会(商調協)において調整し、この要綱は生協などの組合店舗も対象とすることとなった。しかし五十五年ごろから大型店の進出は道内の地方中核都市へと移り、また翌年十月六日通産省が大型店に出店自粛を通達し、さらに五十七年三月四日札幌の大型店出店凍結を市議会経済公営企業委員会が採択したことで、札幌における大型店の出店はひとまず収束することとなった。