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ススキノと郊外の歓楽街

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 昭和六十年になるとススキノでは、「オークラビル」(南五西二)や「第三グリーンビル」(南四西三)など床面積一万平方メートルを超える「日本最大」を標榜するジャンボ飲食店ビルが建設され、一種のビルラッシュをむかえた。同年十月十二日にオープンした「オークラビル」には大阪の「五えんや」チェーンが地下一階を占領して「月の法善寺横丁」を開店させ(道新 昭60・10・12)、またこれらの巨大ビルには居酒屋に限らずスナックやパブ、キャバレー形式のクラブやビアホール、中華料理店などさまざまな店が出店した。また六十一年には南七条西三丁目に温泉がでたことから「ジャスマックプラザ」が建設され、また鴨々川流域を「女性も楽しめる」新たな飲食ゾーンとして再開発する動きもあらわれた。その後巨大ビル建設ラッシュが一段落し、地価高騰で広い土地が取得できなくなった平成元年ごろには、六~八階建てでワンフロア一五〇平方メートル程度の「ミニビル」が建設され、スナックを中心に出店が進んだ。
 一方歓楽街につきものの過激な性風俗店や「暴利バー」、青少年の非行の取り締まりは、昭和六十年の新風俗営業法施行、平成十一年の改正風俗営業適正化法施行などにより強化された。また「バブルの崩壊」による景気低迷により、五年には札幌の飲食店「廃止届」数が新規の「営業許可」を上まわり(道新 平5・4・28)、ススキノでも拓銀が破綻した九年には忘年会シーズンの十二月までに前年に比べ五〇〇軒もの飲食店が閉鎖に追い込まれた(道新 平9・12・7)。そんななか十一年にはすすきの観光協会やすすきの社交料飲組合、町内会など一四団体が「薄野こうでナイト会議」を発足させ、ススキノ地区をより安全に、また「男性だけでなく女性や高齢者も楽しめる」場所として活性化するため、九月二十五、六日には成田山札幌別院新栄寺で「薄野縁市」を開催するなど「昼のススキノ」をアピールする動きもあらわれた。
 しかし、「北のススキノ」といわれた北二四条をはじめ、琴似や麻生、南郷七丁目、大谷地、澄川など地下鉄駅を中心とした地域でも「手軽さ、安さ、自宅への近さ」を売り物に飲食店街が形成され、ススキノ一極集中は崩れつつある(道新 平5・1・6)。またバブル崩壊後テナント料が下がった狸小路以北、特に札幌駅前周辺でも勤務先の近いサラリーマンや家族連れを対象とした居酒屋などの出店が相つぎ、「ススキノ離れ」は止まっていない(道新 平9・10・31)。