昭和三十年代なかば以降、経済界の好況とレジャーブームによって馬券の売上高と入場人員は急激に増加し、札幌競馬場でも開催日と場外馬券発売日には、競馬場周辺は交通混雑と騒音の〝競馬公害〟にみまわれた。五十年六月には五〇億円の巨費を投じてスタンドや付属施設の大改修が行われたが、駐車場の増設はされなかったため、年々繰り返される競馬公害は増幅されるばかりであった(道新 昭51・6・17)。
こうした競馬公害の緩和策として打ち出されたのが都心の場外馬券売り場の新設計画である。候補地の南三条西四丁目と狸小路五丁目の二カ所の地元住民は、商店街の活性化につなげたいとする賛成派と、健全な商店街のムードを壊すと考える反対派の二派に分かれたが、日本中央競馬会は五十四年三月二十四日場外馬券売り場の本館を南三条西四丁目に、分館を狸小路五丁目にオープンさせた。
場外馬券売り場の進出は交通の利便性から競馬ファンの拡大を促し、一イベントあたりの売上げも前年比で二倍に上った(道新 昭54・6・4夕)。
平成二年には赤字経営に苦しむ道営競馬が収益の向上をねらって、中央競馬会の札幌競馬場に間借りしていた馬券売り場をススキノに移設する計画を進めた(道新 平2・5・11)。しかし建設予定地の南六条西五丁目は暴力団事務所が密集する地区だったことから、地元の薄野地区暴力追放運動推進協議会等が「暴力団の資金源を助長し、違法駐車など環境が悪化する」と強く反対し、道は代替地のめども立たないまま計画を断念する(道新 平3・9・21夕)。
また五年には大阪の建設会社が南四条西一一丁目の旧四条市場跡に、モーターボート競争の場外舟券売り場を含むビルの建設を計画した。場外舟券売り場については五年前にも東京の業者が豊平区内に開設を計画しており、二度目の建設計画であった(道新 平5・9・29)。
さらには平成八年、公営オートレースを行っている群馬県伊勢崎市が南三条西四丁目のアルシュビルに場外車券場を開設する計画を明らかにし、翌九年には札幌市内の民間会社が手稲区前田にばんえい競馬と函館市営競輪の公営レース場外馬(車)券売り場の設置を計画した(道新 平9・7・8夕)。
これら四件の建設計画はいずれも地元住民あるいは地元商店街の強い反対運動にあい、業者が計画を断念している。