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青年・学生運動の混迷と北海道庁爆破事件

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 昭和四十九年(一九七四)一月、東京でベ平連が解散し、四十一年の結成以来、独自の定例反戦デモや市民集会などを続けてきた札幌ベ平連も、五十年四月十三日付機関誌発行で活動を停止した(旧「ベ平連」運動の情報)。一方、四十年八月に社会党や総評、社青同の提唱で発足後、運動が激化した反戦青年委員会は四十五年四月に社会党が絶縁を決定して以降、道内でも革マル派と革マル派を除く反戦派に分裂し(市史5上 七章)、反安保闘争終了後は目標を失い活動も失速した。反共産党系学生団体の活動も道内では四十七年頃から沈静化したが、全国的には火炎ビンや手製爆弾の使用、連合赤軍事件(昭47)などに対する世論批判や労働団体などからの排除で孤立し、五流二二派といわれるセクト間抗争(内ゲバ)で四十九年から五十年にかけて三一人が死亡するなど混迷を深めた(焦点 昭51・5)。四十九年には三菱重工本社前爆破など全国で一般市民をまき込む六件の爆発事件により死者八人・負傷者四一二人の犠牲者を出し(焦点 昭52・11)、社会的な批判が高まるなかで札幌でも次の二件の爆破事件が発生した。
 五十年七月十九日、北海道警察本部三階で時限装置付缶爆弾が破裂して五人が負傷し、同日市営地下鉄大通駅コインロッカーから「東アジア反日武装戦線」の「声明文」が発見された(道新 昭50・7・20)。さらに翌五十一年三月二日、北海道本庁舎一階ロビーで時限装置付消火器爆弾が爆発し、職員二人が死亡、九五人が重軽傷を負った。「道庁を中心に群がるアイヌモシリの占領者どもは、第一級の帝国主義者である」とする東アジア反日武装戦線名の犯行声明文が見つかったが(道新 昭51・3・2夕)、同日は明治三十二年(一八九九)に制定された「北海道旧土人保護法」の公布日にあたっていた。昭和五十一年八月、爆発物取締法違反容疑でK容疑者が逮捕され、その後、道庁事件で再逮捕、道警本部事件で再々逮捕された。被告は完全黙秘を続け、裁判では有力な証拠がないことが大きな焦点となったが五十八年三月札幌地裁は死刑を宣告し、六十三年一月、札幌高裁は被告の控訴を棄却した。平成六年(一九九四)七月、最高裁が上告を棄却し死刑が確定したが、十四年七月、K死刑囚は、明らかな冤罪であるとして再審を請求した(道新 平14・7・31)。