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原発建設反対運動と運転差し止め訴訟

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 昭和四十一年(一九六六)、茨城県東海村に国内初の原子力発電所が設置され、五十年のアメリカに続いて国内でもひび割れ事故が発生して以降、各地で反原発住民運動が起こるようになった。総評が社会党や原水禁と歩調を合わせて原発反対方針を打ち出したのに対し、同盟は五十三年、石油にかわる「原子力エネルギーの開発・促進」を決定した。五十四年、米国スリーマイル島で原発事故が発生し、国内の反原発運動が高まるなか札幌でも五十五年二月、「原発を考える会」が結成され、五月には、北海道電力や賛成・反対双方の研究者によるシンポジウムを開催した(札幌地区労経過報告書)。翌五十六年、後志支庁管内泊村に確定(昭53)していた北電泊原発一・二号機設置に関する通産省の第一次公開ヒヤリングが日程にのぼり、道内各地で賛成・反対双方の論議も高まった。札幌では七月、札幌地区労が「共和・泊原発設置反対札幌総決起集会」を大通広場で開催し、以降「反核・反原発全道住民会議」など一二〇団体や個人参加の「共和・泊原発に反対する道民会議」が結成されるなど、現地泊村と北電本社所在地札幌を舞台に反対運動が高揚した。一方、道同盟や道内経済団体で構成する「共和・泊原子力発電所建設促進会議」は十一月、札幌市民会館に三二〇〇人を集め「建設促進道民集会」を開催した。全道労協は十二月、泊村での第一次公開ヒヤリング阻止を目的に、札幌など全道各地から六五〇〇人の組合員を現地に動員して激しい抗議集会やデモを反復し、これに対し警官隊三五〇〇人が出動した。七日、デモ隊と警官隊との衝突で札幌の労働組合員など六人が、八日には開会を阻止するピケ隊員一人が逮捕されるなど騒然とした雰囲気が続くなかで、九日、賛成派陳述人のみによるヒヤリングが実施された(道新 昭56・12・7など)。
 その後、泊原発建設は、一・二号機本格着工(昭59)、一号機燃料搬入と試運転開始(昭63)、一号機営業運転開始(平1)、二号機試験運転開始(平2)、営業運転開始(平3)と続く。昭和六十三年、札幌地区労や反核反原発全道住民会議などは運転差し止め訴訟運動を展開し、四万二〇五八人の原告団の中から地元住民や札幌市民など一一五二人が訴人となり、北電を相手に「原発運転差し止め」を札幌地裁に提訴した(道新 昭63・8・31夕)。また同六十三年七月、全道労協・札幌地区労・生活クラブ生協・道農民連盟・地元住民等により「泊原発凍結!道民の会」が結成され、完成した原発の可否を問う全国で初の「道民投票条例」制定の直接請求運動を展開し、札幌市三二万筆など全道で一〇二万筆の署名を集め、十二月一日招集の臨時道議会に委ねられた(資料北海道労働運動史)。全道労協と対立する道統一労組懇(後述)なども独自に「泊・幌延直接請求の会」を結成し条例制定運動を展開したが、これらに対して原発推進派もまた「原子力発電推進道民会議」を発足させた。賛否両派の活発な運動が展開されるなかで道議会は、同年十二月三日、賛成五二、反対五四の僅差で住民投票条例案を否決した(道新 昭63・12・4)。平成二年六月、「泊原発を廃炉に!二号機の試運転強行抗議全国集会」が、大通八丁目広場で労働組合員や一般市民四八〇〇人により開かれた。八年には三号機の環境調査へと進んだが、その間に、全道労協・道原発反対共闘会議・札幌地区労による反対運動は、北海道平和運動センターや札幌平和運動センターなどに継承された。三号機設置反対運動や一・二号機の運転差し止め訴訟は、五年以降、札幌地区労の解散により札幌平和運動センターを中心に継続したが、札幌地裁は十一年二月、一・二号機に「具体的危険は認められない」として原告側請求を棄却した。一方で判決は、「電力消費を削減して放射性廃棄物を生み出す原発を中止しようという選択もあってよい。自分たちの子供に何を残すのか賢明な選択をしなければならない」と指摘して「原発のあり方に一石を投じ」(道新 平11・2・23)、この判決を受けて原告団は控訴を断念した。