昭和四十六年(一九七一)三月十五日、日本国民救援会道本部・全道労協・社会党道本・共産党道委で構成する実行委員会主催の第一二回「北海道解放運動犠牲者合葬追悼会」が市内労農会館で開催され、遺族や関係者など九〇人が参加した。戦前期の治安維持法等犠牲者などを中心とする「北海道労農運動犠牲者の碑」(昭24中央区大通西九丁目に建立、同41月寒公園内に移転)に新たに三三人の名前が加えられ、戦前戦後の解放運動合葬者数は三三二人となった(解放運動をささえたいしずえの記録)。その後、実行委員会方式による合葬追悼会は平成元年(一九八九)まで続いたが、全道労協の解散などにより中断。四年の第三〇回以降は救援会道本部主催で実施され、この間の三年十一月、解放運動遺族会により「札幌いしずえ会」が結成された(北海道救援運動史年表)。このほかにも、昭和五十五年十一月、自治労全道庁労働組合において、戦後労働運動勃興期の二十四年、行政整理(レッドパージ)により職場を追放された、当時の全道庁労組委員長ら組合幹部など五六人を特別組合員として迎える特別決議が行われた。五十三年十月の元全道庁労組委員長死去を機に追放者全員の「名誉回復」を求める声があがり、実現したものであった(道新 昭55・11・9)。
一方、これより先の昭和二十八年、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の遺骨調査により、道内各地で三一一人の残留遺骨が確認され、同年七月、東本願寺札幌別院での慰霊祭などの後、中国に送還された。その後、三十二年の第七次までに戦時下に犠牲となった道内中国人遺骨の調査・送還が完了し、この間に中国人労働者の労働実態調査も行われた(資料中国人強制連行)。朝鮮人労働者に関しては断片的な調査にとどまっていたが、四十八年、朝鮮人強制連行真相調査団が本格的に道内の現地調査を行い(朝鮮人強制連行強制労働の記録―北海道千島樺太篇)、以降、戦時下の外国人や「底辺」労働者の実態調査も活発に行われるようになった。同五十年、民団道本部が韓国人遺骨収集奉安委員会を設置し、道内の寺院二四七七カ所を調査して残留遺骨の収集に努め、五十二年十一月、韓国忠清南道「望郷の丘東山墓地」に無縁仏二五三柱を返還埋葬した(道新 昭52・10・23)。また、五十七年に「札幌郷土を掘る会」が結成され、札幌市内のタコ部屋労働の実態や強制連行された朝鮮人の実態調査を行い、「札幌民衆史講座」を開催するなど、「歴史掘りおこし」運動を開始した(続・掘る 北海道民衆史掘りおこし運動)。六十二年七月、掘る会を中心に「北藻岩発電所建設工事犠牲者の顕彰碑を建てる会」が発足し、平成六年六月には、山鼻川河川敷で顕彰碑の除幕式が行われた(道新 平6・6・12)。「藻岩犠牲者の碑を維持する会」の主催で毎年追悼式が行われ、その後、両団体は各種の調査や反戦平和活動などにも参加し、平和・人権・教科書問題など広範な活動を継続している。