日本の女性雇用労働者数が一〇〇〇万人を超えたのは昭和四十二年、そのうち既婚者が半数に達したのは四十五年である。「働き続ける」ことは特殊でなくなったが、労基法第四条の「同一労働同一賃金」以外職場の男女平等を保障する法律はなく、結婚退職制、定年差別制は、憲法第一四条と民法の「公序良俗」規定によって裁かれてきた。国際婦人年以後、各国で制定されたように雇用平等法の実現を望む声は高まった。
しかし財界は「平等を求めるには保護廃止を」との姿勢が強く、五十三年十一月、労働基準法研究会(労相の私的諮問機関)は「婦人労働法制の課題と方向」を提出した、労基法が女子に保障する時間外労働制限や生理休暇の廃止を打ち出す、いわゆる労基法研「報告書」は激しい論議を招いた。『北海道新聞』は「保護と平等 労基法研の提言をめぐって」と題して職業人男女五人の賛否両論を掲載した(昭53・11・28~12・5)。北教組婦人部はこの「報告書」に対し抗議はがきを集中させた。札幌婦人問題研究会は婦人労働者の総パート化をめざす労基法「改正」は許せないと、働く女性の座談会を開き「報告書」特集の会誌を発行した(前進する婦人 13)。
五十五年九月、「あごら札幌」主催の「男女雇用平等法をつくる札幌集会」には一五〇人が参加、中島通子弁護士の講演「いまこそ女の労働権確立を」の後、活発な討論が交わされた(道新 昭55・9・21)。十月同じく札幌で「労基法の改悪に反対し男女の雇用平等を実現する全道集会」が開かれた。講師の塩沢美代子は、長い労組専従の体験からまず労基法〝改正〟の動きを完全に阻止することを説き、一二〇人の参加者は閉会後、市内をデモ行進した(道新 昭55・10・27)。その後「労基法改悪を阻止する全道婦人連絡会」が結成され、翌年の国際婦人デーに討論集会(道新 昭56・3・8)、法案提出直前にも均等法反対集会を開いた(道新 昭59・5・6)。
一方政府は、差別撤廃条約の批准が迫った五十九年五月、「男女雇用機会均等法案」(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を促進するための労働省関係法律の整備等に関する法律案)を国会に上程した。しかし法案の内容が、「雇用平等の措置については、募集・採用・配置・昇進が努力義務規定、教育訓練・福利厚生・定年・退職・解雇が禁止規定、自主解決できない苦情処理は婦人少年室長の指導・勧告、雇用機会均等調停委員会の調停」であり、引き替えに労基法の女子保護規定大幅廃止の計画に対して、雇用平等法制定の期待にはほど遠いとの批判が国会内外から集中した。
前年十二月の衆議院議員選挙で北海道一区から初当選した竹村泰子は、七月十日の衆議院社会労働委員会で質問を行った。その重点は法制定の理念の確認で、男女両性に家庭責任を認めて性別役割分担意識の克服をめざす女子差別撤廃条約やILO一五六号条約に基づかない均等法は、勤労婦人福祉法と同質で、女性の労働権を保障するものになっていないと追及した。
同月十六日には札幌・福岡の二市で地方公聴会が開かれた。札幌の陳述人は上野博(北海道経営者協会専務理事)、小川環(北海道教育大学教授)、鈴木利夫(北海道中小企業団体中央会常務理事)、八幡敬一(弁護士)、中橋三重子(北海道婦人団体連絡協議会会長)、清野一都美(北海道地方同盟婦人委員会委員長)の六人で、上野、鈴木、中橋は内閣提出法案に賛成、小川、八幡は反対、清野は主として職場で働く女性の実態について述べた。意見陳述の後、労基法改正とパートタイマーとの関係、北海道での離婚率と生活保障などについても熱心な質疑が行われた(第百一国会衆議院社会労働委員会議録)。
公聴会が報道関係者以外非公開とされたことに対し、反発の声があった。道統一労組懇婦人連絡会は、「働く婦人の傍聴も許されないのは不満」とし、「男女差別禁止に罰則規定や救済機関を設けること」などを求める要請書を陳述人に送った(道新 昭59・7・15)。
結局均等法案は、国会でかつてない多数の女性傍聴者の見守る中、衆議院で可決、参議院で継続審議となり、翌六十年五月、将来見直しなど一部修正で可決、六月一日に公布(翌年四月一日施行)された。直後の六月十一日に労働者派遣法が成立、七月五日公布(翌年七月一日施行)された。