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北海道看護協会の誕生と活動

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 日本助産婦看護婦保健婦協会北海道支部(昭22結成)は、支部内に保健婦・助産婦・看護婦の各部会制を敷き(昭29)、さらに看護婦部会のみは、地区支部として札幌に中央・東・西・北副支部を置いた。しかし、五十八年四月に各職能の特殊性と利害の面から保健婦、助産婦、看護婦の各部会制を解消し、「看護はひとつ」をキーワードに、三職能を一体化、日本看護協会北海道支部に改称し組織統合を図った。五十二年には会館(白石区)を開設し、専門職能団体として各種の研修や待遇改善、看護職の水準を上げるため准看護婦制度廃止などの活動を行ってきたが(日本看護協会道支部40周年記念誌)、その後、平成五年六月に本部から独立し、社団法人「北海道看護協会」に改組、より地域に密着した事業を推進する目的から、看護婦の労働力不足や研修機会の増加などの課題解決に向け運動を開始した(道新 平5・4・20)。
 看護婦不足は常時社会問題となった。昭和六十二年では高校卒三年課程の正看護婦養成機関は道内に三一校、定員一〇〇〇人であり、六十年前後に毎年五、六倍の競争率が数年間も続き専門予備校まで開校した。市立高等看護学院の受験生は浪人生が三、四割を占めており、女性の職業として就職率が良く結婚退職後も復職できる条件が整い始め、不況にも強い職種として予備校生の半数は市外から集まる状況であった(道新 昭62・4・25)。看護婦不足対策として、同協会ナースバンクでは北海道から看護婦職業紹介事業を委託され、潜在看護婦の活用や就業希望者への医学や看護の新情報を提供し、無料職業紹介により職場復帰を促進した。しかし、札幌市内でも待遇や労働条件が良く、募集が容易な国立・公的病院と民間病院との格差が目立ってきた。そのため、再就職の条件としてフレックス勤務の導入や保育施設の設置を求めた(道新 平5・5・12)。看護・准看護婦(士)数は、平成十一年札幌市が人口一〇万人あたりで最も高い一一三一人、根室市の五九八人(道統計書 平13)に比べ、医師同様に札幌一極集中傾向であった(表24参照 平14年3月1日、保健婦助産婦看護婦法の改正により保健師、助産師、看護師に改称した)。
 同協会では社会的な要望の強い老人介護や家庭看護の講習を一般向けに行ったり、六十年に思春期電話相談を開設して若者の性の悩み相談を行っている。十代から二十代の女性に人工妊娠中絶が多いため、「望まない妊娠」を回避するための避妊方法や家族計画の指導相談を行ったり、特に受胎調節指導の実地指導員の認定講習を実施している。