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若年労働力の不足

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 昭和三十四年(一九五九)になると景気も好転期に入り高度経済成長が始まった。二十九年ころの就職難とうって変わり、札幌市内に求人難の兆しが現れたのは三十五年以降である。新聞紙上には「ほぼ一〇〇パーセントが就職」(道新 昭35・3・13)、「条件良い方選ぶ 本州へスカウト連が引き抜く」(道新 昭36・9・26)など人手不足の状況を表す言葉が散見し始める。中学・高校卒の新規採用制度が固定化し、求職の生徒側がほとんど就職できる一方で、企業側は学校か職安に求人募集をすれば安定的に人員を確保できた状況が一変した。
 表38-①は市内中学卒業者のうち、五月一日現在の就職している者と進学した者との動向を表す推移である。三十年は卒業総数六八二五人のうち一五三七人(二二・五パーセント)が就職し、また、就職しつつ定時制や通信制高校に進学した四二四人(四パーセント)を合計すると一九六一人で、四人のうち一人強の生徒が職についていた。その後は進学率が上昇したため、四十年の一九一四人(一一・五パーセント)をピークにして以降は減少に転じ、五十年には就職者はわずか二五二人(一・七パーセント)の少数になった。働きながら学ぶ定時制通学者もピークは四十年の五一五人、それ以降五十年には一四四人(一パーセント)となり、就職者は三十年から五十年までの二〇年間に六分の一にまで減少(ただし五十年は不況のため就職できない無業者も増加した)し、事業所にとってもはや新規の中学卒業者を求めることは困難となり、彼らは「金の卵」と称され、四十五年には「月の石」とまで言われた。
表-38-① 札幌市内中学卒業者就職率・進学率の推移(昭和30~55年)
 総数
(人)
就職者進学率
(%)
就職しつつ
進学した(人)
無業・
その他(人)
(人)比率(%)
昭306,8251,53722.574.2424645
 359,1871,14412.579.8481227
 3814,6351,89113.078.9507685
 4016,6551,91411.581.8515720
 4512,6918076.488.2280407
 5014,5182521.794.9144344
 5517,4944132.494.9195

 同じく表38-②により高校卒の就職動向をみると、就職率が最も高い三十五年の五六・一パーセントが次第に減少した。率は低下したものの、四十三年は第一次ベビーブーム世代最後の二十四年出生者が高校卒業時を迎えたため、卒業生の約半数六八三七人が就職しピークとなった。その後、三〇パーセントを切っていた高校卒業者の各種学校・短大・大学への進学率(卒業総数に対する比率)が急速に高まった五十年には、就職率(三四・二パーセント)と進学率(三九パーセント)とが逆転した。このような就職率の減少傾向にもかかわらず毎年四〇〇〇人前後が就職し続けた。就職しつつ進学していた夜間大学生は三十年には卒業総数の最高率三パーセント、一八六人であったが、その後、率は減りながらも毎年新卒の一五〇人前後が夜間に学んでいた。
表-38-② 札幌市内高校卒業者就職率・進学率の推移(昭和30~60年)
 総数
(人)
就職者進学率
(%)
就職しつつ
進学した(人)
無業・
その他(人)
(人)比率(%)
昭305,4162,36943.724.21861,924
 359,7475,46556.120.21122,165
 4315,0096,83745.628.31293,798
 4513,0336,02646.329.11713,051
 5011,8404,05534.239.01613,003
 5514,4754,71632.539.31,425
 6015,5964,29327.237.51,098
『札幌市統計書』「中学校・高等学校の卒業後の状況」各年より作成。昭和30年は7月1日、その他は各年5月1日現在の学校基本調査による人数。
就職者には自家営業についた者を含み、無業・その他には家事手伝い、一時的仕事に就いた者を含む。
表38-②の進学率には、昭和30~50年は該当年の高校卒業者総数に対する各種学校・短大・大学等進学者(就職しつつ進学した人を含む)合計の比率を表し、昭55・60は各種学校進学者は含まない。

 札幌市内をはじめ、道内の中学卒年少労働者の希少価値をさらに高めたのは、道外への就職事情である。三十九年の札幌職業安定所(札幌市・江別市・千歳町管轄)には求職者の四倍の男子三六〇〇人(機械、電気、自動車整備)、女子二二〇五人(バス会社・ゴム・食品工場、商店)の求人が殺到し、道外からも六五二人の求人があったものの、札幌市内の事業所は比較的求人条件が良いために札幌から管外にでる中学卒者は少数であった(道新 昭39・1・11)。これらの本州からの集団求人に対しては、三十年代に始まった学校や職安を通じての「集団就職」が主流だが、集団求人は都市出身者を雇用することができないことが前提にあったため、事業所の少ない道東や道北地方、閉山が相次ぐ炭鉱地帯の空知地方からが多く、札幌市内からの「集団就職」はわずかにとどまった。しかし、本州企業は道内企業よりも平均賃金が上回るため流出率は増加傾向にあった。
 学校基本調査によると、四十一年三月に道内の中学卒業者で就職したのは三万六七一五人、このうち七分の一にあたる五一五七人、四十六年には一万七三九九人のうち三分の一の五三一二人が道外へ就職するようになり、道内企業が中学卒者を採用することをますます困難にした。同じ増加傾向の高校卒では、四十六年の道外流出は、就職者四万四二七二人の四分の一に相当する一万一〇六五人となった。また、四十七年三月の北海道職業安定課調査によると、大学卒では就職者の約半数(二四一〇人)が道外へ流出し、短大では女子の六割強(一五五七人)が道内に残ったが、特に工業技術系の工業高専では求人倍率が一七倍の引く手あまたの様相となり、男子は八割強(三一〇人)もが道外へ就職した(北海道総合開発研究所 北海道における人口・労働力の動態調査)。