昭和四十七年度以降の札幌市の教育行政や現場の教師・子どもたちの変遷を描くために、まず、札幌市内の小学校で長く教鞭をとった教師に登場してもらう。その教師とは、二十六年四月から網走および空知管内で三年半教鞭をとったあと、二十九年十二月に札幌市内Y小学校に赴任したY教師である。その後、二校の小学校教諭を経て、四十八年四月に市教委指導主事義務教育担当となり、教頭や道立教育研究所部長・校長などを歴任して、平成二年三月に退職している。
昭和四十七年という年は、教育の世界では、「教育の現代化」がスローガンとなった四十三年度版の学習指導要領が実施に移され、市内で小学校六校・中学校二校が新築された年であった。また道と北海道教職員組合(北教組)がいわゆる「46協定」を締結した翌年でもあった。当時、Y教師は南区のM小学校にいた。M小学校は四十三年に創設された四年目の学校であった。四十三年度は小学校建築ラッシュの時期であり、一年間に七つの小学校が新築された。「建設された小学校は『粗製乱造の建築』であった。開校式は体育館がないので玄関ホールで行い、教材・教具も不足していた。体育の授業は空き教室で行い、大変危険を伴った」とY教師は言う。また「新設校は素地作りが大変である。中堅の先生方は前任校で学校運営についてその学校のやり方を知ってきてはいるが、新しい学校では、それを持ち寄って新しい運営の仕方を作り出さなければならな」かった。
「組合活動も活発な学校であった」。校長が人の和を大事にする人であったので、大きく対立したことはなかった。しかし組合活動内の人間関係で「しっくりいかなかった」こともあったという。例えば、当時組合は授業時間に支障がないように「早朝29分間スト」などを実施していたが、分会でそのストに参加するか否かの議論をする。Y教師はストに参加しないことが多かった。その場合に「不参加で学校に残る教員は、ストに参加した教員の補充(朝の会の指導など)をする必要」がある。「ストから帰ってきた教員が、残っていてその教員の補充をしていた教員と引き継ぎ、交代する」ことになる。その際に「顔を合わせて気まずい思いをする」のである。「ストに参加した教員からすれば『なぜこの人はストに行かないのか』ということになり、一方『残った方』からすれば、『私はあなたのクラスの分まで面倒をみたのだ』」となるわけである。Y教師はつとめて大きな声で「おつかれさま」と挨拶をした。