昭和四十年代後半から五十年代にかけて、以上のように学校が新設されてきたが、札幌市の施策は結局、生徒増に追いつくことはできなかった。あまりにも急激な生徒増であったことが理由であるが、財政問題でもあった。予算との兼ね合いで「安く早く」学校を建築するために、窮余の策として行われたのがプレハブ教室の建築である。プレハブ教室は鉄骨とパネルなどで組み立てただけの仮設建物であり、当然設置費用も安い。しかし、教室内の温度調節が効かず、夏の暑さや冬の寒さを防ぎきれず、また騒音に対する防護もないに等しいものであった。
プレハブ校舎が札幌に登場したのは四十年代前半であり、四十九年度および翌年度当初においては、普通教室だけで小・中学校あわせて一二四程度あった。北区の中学校においても、新琴似中学校で四十五年(一教室)と四十六年(三教室)、篠路中学校で四十一年(二教室)と四十七年(一教室)と建築されている。五十年第二回定例市議会では、板垣武四市長のプレハブ教室解消も含めた学校整備計画発言について質問がでた。市長は「年度末では六六に減少する。この完全解消については、…早い時期に」解消したいと答弁した。五十一年度末にプレハブ普通教室は五四に減少したが、特別教室などを合わせればまだ一二一教室あった。市では「プレハブ教室解消二カ年計画」を樹立し、五十二年度末のプレハブ普通教室は三二となった。さらに翌年度、プレハブ教室はすべて解消された(十四期小史)。