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視聴覚教育から情報教育へ

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 戦後、占領軍が都道府県教委に貸与した一六ミリ発声映写機、いわゆるナトコとCIEフィルムは、社会教育における視聴覚教育の発展に大きな役割を果たした。当時、道立図書館は札幌市にあり、その恩恵を受けることが大きかった。学校教育においても、映画教室や映画教材を利用した授業として活用された。これらの活動は札幌市視聴覚教育研究部を中心に行われ、昭和三十一年三月二十二日に札幌市視聴覚教育協会が設立され、映画教育に必要なフィルムの充実活用、映写機・録音機および紙芝居など必要な機械器具の充実活用を活動内容とした。協会は一一年にわたって活動を続けたが、四十二年度から公立ライブラリーとして市教委が直轄運営を行うことになり、場所も市立図書館内に置かれることになった。その後市教育文化会館開設に伴い、五十二年五月十日から視聴覚センターとして発足し、さらに平成十二年四月の札幌市生涯学習センター(ちえりあ)開設に伴い、移転した。一方、放送教育については、占領軍の積極的な支援をもとに、昭和二十三年度から行われた。NHKの学校放送を中心とする研究組織は、全道大会を二十四年度に開催している。民間放送の北海道放送も、三十二年七月から三十五年八月にかけて教育番組を放送した。放送時間は午前十時五分から二十五分までの二〇分間で、月曜日が中学校の時間、水曜日が小学校高学年を中心とする時間、金曜日がスクールクラブという内容であった。特色ある番組としては、昭和三十二年度の純潔教育番組、三十三年度の総合開発関係の八番組や全北海道の教育現場の要望にこたえる公開授業番組、三十五年度には「テレビ修学旅行」などがあった(札幌の教育)。
 テレビ普及率が上昇するなかで、学校設備としてテレビ受像機も各学校に配置されるようになった。最終的に五十六年度には、市内各小・中学校全学級に受像機が置かれた。またビデオ機器についても四十二年に創成小学校にテレビカメラとともに導入されたのを皮切りに、五十年代後半から一般化した。LL教室は、旭丘高等学校を皮切りに、五十八年度で市内中学校一八校、六十一年度で市内四九校で設置された。さらに高度情報社会の到来によって、情報教育の必要性が強く叫ばれるようになった。情報リテラシー(情報活用能力)の育成のため、コンピュータといった情報機器やネットワーク環境の整備が必要となったのである。市では、平成六年度までに小学校一校三台、中学校一校二二台の整備を行い、すべての公立小学校のコンピュータ設置を終えた。しかし、操作できる教師の数は、五人に一人という状況であった(道新 平7・3・14)。六年度に文部省が新整備方針を打ち出したことにより、十二年度までに小学校一校二二台、中学校一校四二台の整備を行うこととした(札幌市中学校教育五十年)。